禅とは如何に
(出典:書き下ろし)
禅の教えは、不立文字教外別伝、(文字言句によらず心から心へ伝える)、直指人心見性成仏(仏を対象と見ないで己自身が仏になれる、否、仏そのものだ)という教えなのですが、禅について古人(禅の祖師方)の禅に対する深い思惟を列記するならば、中峰和尚云く、「禅とは心の名なり、心とは、禅の体なり」。
人、誰しもこの世に生を受ける限り、肉体のうちに心と名のつくものが宿り、日常生活の中で生死が代表する、是非善悪、美醜優劣、栄光屈辱のあらゆる二元対立の心象の世界の揺れ動く中に、自己の好条件を勝ち取りまた、めぐり合うべくあくせくして暮らしています。
日常生活の中に一番大切なことは何か。それは心のあり方が大切だ、それはいうまでもない。
道とは如何。 道とは心の異名なり。 (故人云)
日本が世界に誇る伝統文化の粋、茶、剣、柔、弓、香、芸、能、歌舞伎、文楽、人形浄瑠璃…それ等にすべて道がつくのは何故でしょう。
茶を客に呑み頃に、花を誰人の観賞にも堪え得る、剣をとって優劣を競うことも大切だがそれはあくまでも手段であり、究極の目的は己が肉体に宿る深奥にあるそのものにめぐり逢う為ではないでしょうか。
道といえば無門関第19則の南泉和尚と趙州和尚との「如何なるか是れ道」の問答に、「平常心是道」
あるがままの事象をそのままに受け取る素直な心、一切の相対をそのままに受け取る、だが、その心に迷うなかれと。
至道無難禅師[しどうぶなんぜんじ]云く、
道という言葉に迷うことなかれ
朝夕己がなす業[わざ]と知れ
生き乍ら死人となりてなり果て
思いのままにする業ぞよき
あらゆる相対の代表の生と死を別のものとせず生と死を同一視して、生死一如に膝下に引きすえるならば心の安らぐ世界があるとすすめるのである。
禅とは心の奥底にある無限の創造性に徹し、これに随順して生きる
鈴木大拙