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個の自覚

(出典:『花園』平成7年5月号)

 薫風にさそわれて、藁科川の土手を歩くと、連なる山々の新緑や雑木の新芽若葉に、自然の息吹を感じる。川原に下りて腰をおろすと、青く澄んだ大空を魅入っていた。
 大空を虚空というが、虚空は一切のものを包容し、また、あらゆるものを生みだすいのちの蔵である。このはたらきを、仏教では-限り無き智慧と慈悲-といい、人間の本性のはたらきであるともいう。
 禅で「無明の実性が即仏性である」というが、何も知らない幼な子が歩くようになると、見るもの聞くものに関心をもつようになり、紅葉のような手で指さして「アレ、ナーニ」とたずねる。「お花だよ」「小鳥さんだよ」と教えると、どんどん覚えていく。花が開き、小鳥が飛びたつと「ナーゼ」と問う。納得しないと「ドーシテ」と追及する。自ら問い、学ぶ意欲と、真実を求める智慧をもっている。このような意欲に満ちた幼な子が、なぜ、学校へいくようになると、言わなければ、叱らなければ勉強しなくなるのだろうか……。
 昨今の子育てや学校教育は、はからいが多すぎる。人間としての育成を軽く考え、社会に生きていく能力だけを重視して、学力を偏差値(記憶力の有る無しによる)という一つの物差しで優劣を決めてきたのである。
 人間の能力を分析すると、百二十に分けられるという。記憶力は百二十分の一の能力に過ぎない。これで人格まで評価されては、子どもたちが反発・反抗するのも無理ないことである。
 人間は、いのちの本性として、主体的に自由に、人間としての真実を生きていこうとする本質をもっているのである。殊更な、はからいを止めて、お互いが人間性を尊重し、信じあい、欠点は許し、助け合って、人間形成に心尽していくことである。
 一人の人間としての認識を深め、個の自覚をもつことが、民主国家においては基本であり、個の自覚から社会人として誠実に生きていくことが、人間としての真実道ではなかろうか。

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