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富貴寺の春

(出典:『花園』平成元年4月号)

 富貴寺の花は、何時の間にか梅から桃へとかわっていた。九州におけるただひとつの藤原期の阿弥陀堂建築としてこのお堂は、九州のもつ素朴でたくましい地方色をそのまま具現して、千年近くの年月をけわしい風雪にたえて永らえてきたのである。ひさしがゆるいこうばいで、深くさし出た宝形造りの屋根の優雅さと、背後の浄土変相図に囲まれて厳然と坐し給う本尊阿弥陀如来の気高いお姿は、宇治の鳳凰堂や陸中中尊寺などと比べても劣ると思われないわが国の宝であることは間違いない。
 何よりもこの国東の寺は平等院や中尊寺のように権力や財力によって建てられたものと異なり、宇治八幡神の化身というだけで正体すらも判明せぬ高僧仁聞と、信仰にあつい素朴な人々によって一本のカヤの巨木ですべてが建立された。しかも一番の見所は平坦な場所でなく、西叡山や鋸山などの山々が重畳した国東半島独特の自然風景に調和するように俗塵を遠く離れて建てられていることであり、それが一層人々の仏心をかきたてる。
 さかりをすぎかけたその庭の花々は近づけば、むせるような香りと息吹を伝えてくれる。色濃く織りなされた寂光土である。長い冬の間に懸命に自分を養い、守りぬき、春がくるとその短かい生命を精いっぱい開かせている。春は花々のめざめの時である。
春――釈尊はいっぱいの花に囲まれたルンビニの園で生誕された。天もこれをことほいで甘露の法雨をふらせたという。
 人をして人たらしめるのが仏性であって仏教ではそれを象徴して花という。どんな人間でも仏性をもつが故に尊い。人間の内にもつ見えざる価値に掌をあわせよと釈尊は説かれた。
 めざめの春に花に囲まれて生誕された釈尊は私どもにめざめよ、自覚せよと呼びかけてくださる。真実の自分にめざめてみるとはじめて生かされて生きている己れに気づく。花一輪が咲くのも自分が咲くのでなく、大いなるいのちにひきおこされ、何ものかに催されて咲くのである。白楽天の「五十年前雨露の恩」の語がこの時つよく迫ってくる。

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