風吹いて……
(出典:『花園』平成12年3月号)
早春。まだ農作業が始まる前の田圃の畦。焼きの跡に再び青々と草が芽を出す。雑草の生命力が織りなす感動的な復活のドラマだ。まさに、白楽天の詩の一節そのままである。『野火焼いて尽きず春風吹いて又生ず』と。
―修行時代の早春のある朝。
お出かけの際、さりげなく老師が石畳の脇に、生えた雑草を引き抜いた。慌てて私は老師の動作を遮りながら、「後できちんと草取りをします
ので」と口走った。
「バカモノ。今、一本抜けばその分キレイになるじゃろ。まとめて草取りをするのは、それはそれでやればよい」
老師は気づいておられた。当時、私が道場の日課に疲れ、「どうせまた生えるのだから後でまとめて……」と言い訳けをし、結果的に草取りを手抜きしていたことに。
もちろん、草取りという修行は単に庭の雑草を抜くだけのことではない。同時に、心に生ずる怠惰の念を雑草に見たて、芽生えのうちに一つずつ丁寧に除くことだ。
心の汚れは春の雑草よりも盛んに芽吹く。ほんの少し油断をすると、手がつけられぬ程増殖する。雑草と対峙しながら、草取りのテクニックを上達させるのではなく、自らの心を磨くことこそが、修行であった。
そして、思う。
草の生命力は強い。雑念の生ずる力はもっと強い。けれども、それに気づいて自らを調えようと誓願する人間の心の力は、もっともっと強く逞しいのだ、と。
春は、卒業の季節でもある。卒業には、別離・終了など、感傷的な印象が伴う。しかし、同時に、卒業は新たな出会いや次なるステージをもたらしてくれる。復活・飛躍・出発・新生の原因ともなりうるのだ。
春風に促されて芽生えるのは、雑草や雑念だけではない。自らを調えようとの勇気もまた、発心をしたあの頃のように、よみがえってくる。