眼がものをいう
(出典:『琉璃燈』平成8年12月8日)
話をすることはむずかしいことです。
井戸端会議や雑談を得意とする人でも、改った話や人前での話になるとなかなかできないようです。世の中には、どちらかといえば能弁な人より口下手な人のほうが多いのではないでしょうか。中には人前では、ほとんど口の利けない内気な人もおられます。
そのような人と話しあうときは、ことばよりもむしろ、からだ全体を通して、特に心の窓である眼の動きや輝きに、そしてそのうるおいに注目したいものであります。
仏教では、「布施」を大事な修行としています。その布施行の中に「無財の七施」があり、その一つに「眼施」いうのもがあります。これは、人には、よい眼をして接するということであります。つまり、優しいまなざしで人を見るということであります。
べらべらしゃべるよりも、優しいまなざしを注ぐことができたら、どんなにすばらしいことでしょうか。
眼を見たら、その人の心がわかるとか、眼は口ほどに物をいいとか、昔からいわれていますが、まさにその通りであります。眼は心の現れなのですから。
幼児のあの澄んだ清い眼、それにひきかえ成人のどんより濁った眼、とりわけ悪心に満ちた人の眼は恐しさを感ずるものはあります。 また、次に、話顔悦色施というものがありますが、これは、いつもやさしい顔、微笑を絶やさぬ顔をして人に接するということであります。つまり和やかなニコニコ顔で人に明るい感じを与えることであります。これも布施行の一つで大切なことであります。
しかし、人間には、常に感情の起伏があり、いつもこのような状態を保つことはむずかしいかもしれませんが努力したいものです。 眼や顔は、ことばではありませんが、ことば以上に重要なものであります。眼は心の窓思いやりの窓ともいわれています。眼を見れば、その人のいろいろなことがわかるものです。
たとえば、口もとは笑っていても、眼で笑っていないのは、本当にうれしく笑っていない証拠です。
また、反対に表情は、すましていても、眼がおかしそうに笑っていることもあります。感激して万感胸に迫ってくると口が利けなくなるときがありますが、そのときの眼は、何よりも雄弁に心の中を語ってくれているのでしょう。
眼がものをいうことはすばらしいことであります。私たちは、ことばだけに頼らず、こうしたからだ、とりわけ眼や顔に注意し、思いやりの心を持ちたいものであります。