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我慢(がまん)

(出典:『南禅』平成12年1月号)

 我とは自己主観の中心たるものを言います。
昔のインドでは、我は生命の力であり、魂であるとして自我の存在を強く認めました。しかし仏教ではこれに対して、すべての存在は無我であると説き、承認しませんでした。
 即ち、この世に存在するすべてのものは、色(肉体、形あるもの)・受(対象を受け入れて感受する働き)・想(感受したものを表象すること)・行(受、想、以外の心の作用)・識(認識の作用)の五つの要素(五蘊)からなり、どこにも我は存在しないとしています。
 この五つは仮に和合しているのであって、永久に変わらない我の本体はどこにも認められません。般若心経に照見五蘊皆空(五蘊皆空なりと照見して)とある通りです。
 仏教では、我の本体が実在するというのは妄執であるとします。この我にとらわれた見解を(我を張る)といい、さらに我をたのんで心のおごる煩悩を我慢といいます。
 それがいつのまにか転じて、忍耐とか、辛抱する意味に使われるようになりました。まるでうそのような本当のお話しです。

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