法話

フリーワード検索

アーカイブ

人惑を受くること莫れ

(出典:『花園』平成7年11月号)

 晩秋は、落葉する樹に侘しさを感じさせ、夜長は、人間や人生を思索させるものがある。まことに自然と人間の関わりは妙である。
 現代の混沌とした日々、人惑(人の言葉や人の世の価値・評価・権力・金・等に幻惑される)を受くることなく、人間性の真実を生きている人が幾人あろうか。
 考えてみると、明治に入ると富国強兵の国是の下に、人々は国のために役立つ国民として生きることだった。去る大戦に敗れて、民主国家になったが、経済復興の名の下に、またしても国や社会のために役立つ生き方と能力をもつことであった。明治以来、「人間とは何ぞや」は問題にされず、一般は、普遍的な人間性の真実を学ぶことも習うこともなく、個の自覚が乏しい内容になっている、人間軽視時代だったといえよう。
 更に、社会の組織や集団の管理体制に、働く人は、責任を果たすだけの労働となる。そこに、社員重視で人間軽視の現代社会の問題が起ってくるのである。
 次は、ある医師の新聞投書の要約である。

 勤めが終り、病院を出て歩いていると、道端にうずくまっている人を見た。その人に近づき額に手を当てると大変な熱である。急ぎ病院に引き返し、当直の人に扉を開けるように言った。が、時問外だからと、ガンとして聞かない。押問答していても仕方がないと思い、タクシーをひろって他の病院を廻り、三っ目の小病院で漸く診察ができた。もう少しのことで死に到らしめるところであった。「規則よりも人間の大事を訴える」

 この病院の当直の人に限らず、組織の枠の中に働く人は、規則と立場を絶対視して、人間を軽視してしまうところがある。人惑を受けるのである。家庭にも学校にもある。かつて高校の先生が門扉で生徒を圧死させた事件も同じである。
 人間性の真実を識らない人は、世の中の規則や権力・評価に幻惑されて人間軽視の悪に陥る。切に想う、臨済禅師の「人惑を受くること莫れ」の教示を。

Back to list