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出会い

(出典:『花園』平成4年10月号)

 十月五日は達磨忌。史実はともかく達磨が中国で最初に出会ったのは梁の武帝といわれている。この時の問答は人と人が出会うことがいかに容易ならざるかを教えている。「余は寺を造り、僧を度すこと数え切れぬ。どんな功徳があるのか」という武帝に、「無功徳」と、達磨の返答はまことにそっけない。だがこれこそ最高の親切なのだ。善業をいくら積んでもその功徳を求めない、その執着のない、さわやかさこそ仏心―自己の本心から輝きだす功徳なのである。その本心に目覚めよ、と達磨は禅の端的をずばり答えたのだ。
 『維摩経』の「見阿閦仏品」に仏との出会いが説かれている。釈尊が如来をどのように見たかと聞かれて、維摩居士は「本当の自己がわかると、如来と出会うことができる」と応じている。どうやら武帝は達磨に会っても出会うことができなかったことは確かだ。
 凡夫同士の私たちにとっても出会うということがいかなることか、一度、深く考えてみたい。高校一年のとき、勉強などせず山ばかり登っているOという男がいた。彼は私の顔を見るといつも、「坊主の子か」と言って冷笑した。とてもいやな奴であった。学年も進みクラスも変わり、Oのことなど忘れてしまった。今年、『「出会い」と「ふれあい」』(粕谷甲一著)という本に、偶然Oのことが書いてあるのを見つけた。彼は農大を卒業すると、海外協力隊に応募し、フィリピンで農業指導、引き続き請われてインドネシアの農業プロジェクトを軌道にのせる。いずれもガスも電気も水道もない僻地であった。いつしかOも三十六歳になっていた。ようやく結婚。新婚旅行に出かけたアラスカのマッキンリー遊覧飛行中、氷河に墜落し、不帰の人となった。Oは山川草木を愛し、純朴な人を愛し、短い人生を一途に生きた。当時の私には彼の反骨精神と純一さなどとうてい理解できなかった。私がOの魂に出会うのに三十一年の長き歳月が必要であった。

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