仏滅の法事〜吉凶は人に因りて、日に因らず〜
(出典:書き下ろし)
先日、法事の依頼を受けていた際に「仏滅でも法事をしてよいのか」というお問い合わせをいただきました。よくカレンダーに記されている「大安」「友引」「仏滅」などを六曜といいますが、そもそも仏教とは関係のない話です。地域によって斎場(火葬場)が友引休みのため「友引に葬式はできない」ということはありますが、「友引に葬式をしてはいけない」わけではないのです。
このような話があると、思い出されるのが兼好法師『徒然草』第91段です。
世間では、六日目ごとにめぐってくる「赤舌日(しゃくぜつにち)*注1」を凶日だと言うが、もともと陰陽道では、特に問題とはならないことである。昔の人は、この日を忌み嫌わなかった。それなのに最近、いったい誰が良くない日として忌(い)み始めたものか、「赤舌日にすることは、成就しない」と言ったり、「赤舌日に言ったことや、したことは、叶わない。得たものも、なくしてしまう。計画したことは、実現しない」などと言う。まったく愚かなことだ。縁起のよい吉日を選んでしたことで、けっきょく成就しなかったことを数えてみても、赤舌日にしたことで成就しなかった数と比べてみたら、割合は同じようなものだろう。
『徒然草』兼好 島内裕子校訂・訳
ちくま学芸文庫 2010年
兼好法師は鎌倉時代末期の人物でありますが、現代人のように合理的な考え方の持ち主であると思われる方もいらっしゃることでしょう。
ところが法師の考え方の根本は、仏教の世界観に基づいたものなのです。『徒然草』の続きには、法師の考えの根拠が明確に記されています。
なぜそうなるかと言えば、この世界は「無常変易」であり、すべてのものは変化してやまないからだ。有ると見えるものでも、永遠には存在できないし、始めがあったとしても、終わりはない。こうしたいと思う気持ちは、遂げることが出来ず、願望は果てしもなく湧いてくる。人間の心は定めなく揺らぎ、万物は「幻化(げんけ)」であり、幻のように変転きわまりないものである。いったい何が、わずかの間でも不変であり続けられるだろう、何事も不変ではあり得ないのだ。世間の人は、この道理がわかっていないから、「赤舌日」を忌み嫌ったりするのだ。
『徒然草』同上
兼好法師のいう「無常変易」とは、仏教の「諸行無常」のことでありましょう。「諸行無常」とは、あらゆる現象は変化してやむことがないという仏教の世界観をあらわす考え方です。万物は常に変化し続けているにもかかわらず、そこに「吉」や「凶」といった価値観を設定しても一時的であったり、一面的であったりして大きな意味はありません。
では現代に生きる私たちは、どのように毎日の生活を送ればよいのでしょうか。兼好法師は『徒然草』91段の最後にそのヒントをお示しくださっています。
「吉日だからと言って悪事をすれば、必ず凶事(まがごと)であるし、悪い日に善行をすれば、必ず吉事(きちじ)である」と言う。『事文類聚(じぶんるいじゅう)』に書いてあるように、吉凶というものは、その人本人の心懸けによるものであり、日の良し悪しによるものではない。
『徒然草』同上
いくらお日柄が良くとも、悪いことは悪いし、良いことは良い。大切なことは日の好し悪しではなく、本人がどう心を持って生きていくのかというところにある。原文では「吉凶は人に因(よ)りて、日に因らず」とありますが、吉凶の根本は「人」、つまり自分自身にあるのです。
「仏滅でも法事をしてよいのか」というお問い合わせでありましたが、本当に大切な事は何か。自分自身に問いかけてみてはいかがでしょうか。
*注1 現在の六曜で「赤口」の由来といわれる日