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一年草のいのち

(出典:書き下ろし)

 皆様は、永い寿命と短い寿命を選べるとしたら、どちらを選ばれるでしょうか。もちろん全ての方が、永い寿命を選ばれることでしょう。長寿は誰もが望むものです。しかし、最近の研究によって、そうでない命があることが明らかになりつつあります。
 植物には、一年で枯れてしまう一年草と、何年も枯れない多年草とがあります。アサガオなどは代表的な一年草ですね。寿命が永い多年草の方が進歩しているように思えますが、植物が「多年草から一年草に進化してきた」ことが分かってきました。その方がより早く広範囲に繁殖することが可能だからです。つまり、自ら「短い寿命」を選択して進化してきたのです。私たち人間ではありえないことです。さらに、「老い」や「死」すらも、生命が進化の過程で自ら作り出したものだそうです。仏教では生老病死の四つを「四苦」と申しますが、そのうち二つはいわば「進化によって会得したもの」ということになります。私たちのいのちの定義すらも考えさせられる話です。

 江戸時代の禅僧・白隠慧鶴はくいんえかく禅師もまた、命の在り方について悩まれました。白隠禅師は若い頃、世の苦しみを逃れるために出家されました。ところが修行に入って早々、昔の中国の禅僧・巌頭がんとう和尚の故事を聞いてショックを受けてしまいます。巌頭和尚は『祖堂集』などにその名を残された立派な方でしたが、賊に襲われ殺されるという非業の最期を遂げられました。この話を聞き白隠禅師は悩まれました。自分は何のために修行しているのだろう。巌頭和尚ほどの立派な方でも、苦難から逃れられずあっけなく殺されてしまう。それでは何のための仏法だろう……。修行にも身が入りません。
 そんな白隠禅師でしたが、五年後に転機が訪れます。現在の新潟県のお寺で修行していた時のこと、遠くのお寺の鐘の音を聞いて、ハッと悟られます。その時禅師はこう仰いました。「巌頭和尚豆息災!」豆息災とは元気でいることです。巌頭和尚は殺されてそれでおしまいではない、今もなおその教えは伝わっているではないか。長生きや無難な人生に囚われてはいけない。大切なのは限られた命を、巌頭和尚のようにどう生かすかだ――。若き白隠禅師にとって、この気づきが最初の到達点でした。

 人の命の価値は、寿命の長短や境遇で決まるものではありません。白隠禅師は悲運の死を遂げた高僧に、命の尊さを見いだされました。また、「百花春に至って誰が為にか開く」という禅語もございます。一年草は自分の命の短さを嘆くことはありません。それが所与の命だからです。当り前のようにその環境で生き、花を咲かせ散ってゆきます。私たち人間もその点は何ら変わりません。ただ単に長寿であればよいというわけではなく、その寿命の中でどれだけのことを為し得るかを考えなければ、花は咲かず無為に時間ばかりが過ぎてしまいます。
 また同様に、短く儚い命にも、尊さを見いださなければなりません。たとえば、若くして亡くなられる方も時にはおられます。ご家族や近しい方が故人の命の尊さを見つめ直すには、やはり時間がかかります。しかしどなたもいつかは悲しみを乗り越え、「巌頭和尚豆息災」と言える日がやってきます。永くても短くても等しく貴い命、私たちも花のように無心に精一杯生きよう、とお庭の花を見てご一考いただければ幸いです。

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