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屋外の音は?~雨滴声~

 私が修行をしていた建長寺僧堂は作務(掃除や畑仕事)の多い僧堂でしたが、雨が降ると日中から長い時間禅堂で坐禅をしておりました。ザーザーと降る雨の音が響く禅堂での坐禅は中々よいものでした。
 しかしながら、時には坐禅の最中に雨を憎んでしまう時もありました。「折角掃除をしたのに、この雨でまた汚れてしまう……」「今日綺麗にしておきたい場所があったのに、雨のせいで掃除ができなかった……」などなど、そのような感情を抱きながら坐禅をすると、やはり心も定まらず、落ち着きのない坐禅の時間になっていたのでした。

 令和10年に750年遠忌を迎える建長寺開山大覚禅師(1213-1278)は、来朝後間もなく『坐禅儀』(寛元4年[1246年]著)を著作し、未だ坐禅が根付いていない日本臨済禅林に正しい坐禅の意義作法、要点を伝えました。
 その『坐禅儀』の最終段落では、ある問答を取り上げて心が散乱してしまう状態を示しています。

 鏡清(868-937)という高名な老師がある僧に尋ねた、「屋外では何の音がする」。僧は答えた、「軒先の雨だれの音です(雨滴声)」。鏡清は言った、「みな誤って考えてしまい、自分を見失って外の物(客観の世界)にとらわれてしまうのだ」。
 大覚禅師がこの問答を引用し、更に付け加えるには、「(執着・我・煩悩を)手放してしまえ、投げ捨てるのだ」。
 「雨だれの音」との答えに「自分を見失って物を追っかけている」と見切られてしまっているのです。
 この問答は禅僧の問答ですので、鏡清の問いはただの質問ではありません。鏡清はこの僧に音を聞いている自分とは何か、自分の本心とは何か等を聞くための質問でした。しかし、意外にもその僧の発した(客観的な)出来合いの言葉に驚き、自分を見失っているのと発言したのです。

 大覚禅師の言葉には、物を追い駆けてしまう自分を捨て去れ、物にとらわれず執着のない素晴らしい本来の心、美しい心を誰もがもっているのではないか、見失うなよとの言外の意味が含まれているように思います。

 私の出身高校(栃木県足利市内)の先輩に、書家で詩人の相田みつをさん(1924-1991)がおられます。みつをさんは私の住むお寺から近くにある曹洞宗寺院に若い時から参禅し、深く仏教・禅を修めた方でした。今年は生誕100年であり足利市内では生誕記念事業が開催されております。

うつくしいものを 美しいと思える あなたのこころが うつくしい

 相田みつをさんの代表的な詩です。実に平易な言葉ですが、とても心に響きます。ものではなくて、美しいと感じているその心に主眼が置かれ、主体性の強い言葉です。
 美しいものを素直に感動できる心でいられるように、自分を見失わず、清々しい心で生活していきたいです。

 大覚禅師の『坐禅儀』では、自分を見失わないように、坐禅をして心を定め、正しい智慧をはたらかせられるように、細やかな説明がなされています。やはり先ずは、「戒(生活の習慣)」を正すことが重要だと説かれます。そして、正しく集中をして、正しい判断で物事を観られる智慧がつくのです。
 相田みつをさんも、「美しいものを素直に感動できる心は、反対にこれはいけない、これは間違っている」とパッとわかる心だとも言っておられます。

 建長寺の吉田正道老師は、「雨はザーザー、風はビュービュー、カラスはカーカー、猫はニャーニャーじゃ、禅の修行は無心になり切って励むのだ。変に賢くなるなよ」と、常々仰っておられました。
 先ずは、日々の生活から、外境に心を動揺されずに、いま目の前の事にしっかりと丁寧に取り掛かること。もちろん、坐禅は心を定めるのに最適です。正しく物事が見られる心が養えます。『坐禅儀』なども手引きにしてみて下さい。そして、美しいあなたの心を大切にしていきましょう。
 さて、屋外では何の音がしますか?

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