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しっかりやれよ

(出典:『花園』11月号 おかげさま)

 11月の週末には、七五三参りの家族の姿をちらほらと見かけられるようになります。みんな我が子の晴れ姿に満面の笑みを浮かべながら、家族揃って子どもの成長を願われていますが、その様子はとても微笑ましく、そばで見ている私も自然と笑顔になります。子どもの健康や成長は、親の願いであり希望でもあります。お参りされる姿を見ていて、自分の子どものことを思い出しました。
 私の息子が七五三参りをしたのは遠い昔のことで、今は地元を離れ、専門道場で禅の修行に精進しています。成人したとはいえ、親から見ればいつまでたっても子どもで、まじめにやっているだろうか、まわりに迷惑をかけていないだろうかと、気になって仕方ありません。修行中は、外部と遮断されていて連絡を取る手段がないので、「便りのないのは良い便り」だと、無事息災に修行しているに違いないと、私も家内も前向きにとらえています。
 息子が小学生のころ、とくしき(僧侶となるための出家の儀式)を終え、私の師匠、当時は京都南禅寺の管長を務めておられた香南こうなんけんこと中村なかむら文峰ぶんぽう老大師に報告にうがった時のことです。私が老大師に「息子は、大きくなったら私のような適当で、いい加減で、ガサツな男にはなってほしくないです。真面目にコツコツと一歩一歩確実に前に進む丁寧な仕事のできる男になってほしいです」と自分の願いを伝えますと、私のことをよくご存じの老大師は、「はははっ」と大爆笑され、こうおっしゃいました。「この世に同じような人間は二人もいらんが。心配するな。子どもは親そっくりになる」
 衝撃的な一言に「それでは困ります」と私が言うと、また大爆笑された老大師は「禅の言葉に、〈はんえいせき(土をはこび石をく)〉という言葉がある」と続けられました。
 後で調べて分かったことですが、この言葉は禅宗の修行道場でのしん(修行僧の共同土木作業)の時に使われる言葉で、家を建てる時には、まずでこぼこしているところに土をはこんで土地をならし、家が傾かないように土地を水平に固め、そこに柱の礎石を運びます。土台がしっかりしていないといくら立派な家をそこに建てても安心して住めません。人の心配をする前にまず自分の土台をしっかり作りなさいと伝えられたかったのでしょう。
 老大師はさらに理解が難しいことをおっしゃいました。
 「しかし、禅宗坊主の日常は〈はんえいせき〉も大事だが、禅宗坊主はそこに〈えいせきはんしん(石を拽きこころを搬ぶ)〉で日々務めないと意味がない」と。
 私にとっては大変なこうあん(修行で取り組む課題)を頂戴した思いでした。老大師の示された〈拽石搬心〉という禅語からどんな学びを得て、何に気づけばいいのでしょうか。
 毎日、同じように繰り返される日々ですが、その日々を無難に過ごしがちなのが私たちです。毎日が同じように感じられていますが、一つとして同じ自分はありません。どの一日も、どの場所も、どの瞬間も、そこが最初で最後の一瞬なのです。その瞬間に、その時に置かれているその場所で自分がやるべきことに心を込めて最善を尽くす。しっかり地に足つけて、ほかに惑わされることなく、誰のためでもなく、自分の置かれた立場で、その時々にあったやるべき事や、やれる事、自分の本分を一心に全力でつとめる、それが〈心を搬ぶ〉ことであり、ひいては周りの人の力にもなり、巡り巡って誰かの支えになることでしょう。つまり、自分がなすべきことを怠らず、コツコツと丁寧に「しっかりやれよ」ということが老大師の教えだと私は受け止めました。
 人に対する「願い」や「思い」は膨らむ一方です。それに振り回されないように、そこに執着しないように、まずはしっかりと地に足をつけて、今なすべきことに全力で〈心を搬んで〉取り組む。「しっかりやれよ」は、相手に対して言っているようで、実は、自分の心を奮い立たせる言葉なのかもしれません。私も修行中の息子の日々の精進を願い「さぁ~もういっちょうがんばるか~」と元気を注入します。
 では、皆さん、本日もぬかりなく。

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