社会からの一時的な撤退
(出典:書き下ろし)
江戸時代、京都東山に茶屋を開き、客に茶を出しながら禅を説いた僧、売茶翁という人物がいます。彼の遺した『売茶口占十二首』の中に、次のような漢詩があります。
茶亭新たに啓く鴨河の浜
(私は鴨川の岸辺に新しく茶店を開いたのだが)
坐客悠然主賓を忘る
(そこに坐る客は悠然としていてどちらが主人か客か忘れてしまう)
一盌頓に醒む長夜の睡り
(茶を一杯飲むとたちまちに長い夜の迷妄から醒め)
覚来知んぬ是れ旧時の人
(眠りから醒めてみると以前の自分とまったく違わない自分を知った)
この詩は、禅的な気づきを表現したもので、自分の立場を忘れたところに自分がいた、とでも解釈できましょうか。とても味わい深い詩です。
現代に生きる私たちは、日常の中で役割や立場に縛られがちです。それがもたらすストレスやプレッシャーは言わずもがなでしょう。時には、そういった「立場」を一時的に忘れることが必要なのではないでしょうか。
最近では、「自宅や職場から離れた居心地の良い第3の場所」という概念が提唱されています。売茶翁が営んだような喫茶店や、公園、飲み屋さん、あるいは旅行先などがこれに当たるでしょう。お寺さんや山や海といった自然の中もその一つです。皆さまには、ある意味で「逃げ場」となるそんな場所がいくつあるでしょうか。
自立とは、複数の依存先を持つことだとも言われますが、依存が過ぎれば、それもまた問題です。あくまで一時的に立場や役割を忘れ、心身のバランスを取ることが重要です。
最近、興味深いエピソードを耳にしました。東大を卒業し、大手IT企業に就職したある青年の話です。彼は仕事がうまくいかず居場所をなくし、退職を決意。離島に移住して事業を始めたものの、挫折して帰京。その後お笑い芸人を目指しましたが、出場したコンテストではひと笑いも起きず一回戦敗退し、それがきっかけで離婚。ついには実家で引きこもりを始めます。いわゆる「社会的な死」を何度も経験した彼ですが、次のように述べています。
これまで、ぼくは「からっぽ」であることを隠すためにがんばってきた。 「からっぽ」は最高なのに、「からっぽ」をかくすことに苦しんできた。アホだった…。
じっさい「からっぽ」になってみえる世界はマジでめちゃくちゃキラキラしている。
「からっぽ」だからこそ、自然が「自分」にはいりこんでくる。
(中略)
人間関係が崩壊したことで、すべてとつながっている場所にもどってきたのだ。
(中略)
とくに、社会復帰したわけではない。ふとんのなかにはいったままだ。でも、ふとんにはいったまま、「それでもいい」とおもえるようになった。
(しんめいP『教養としての東洋哲学』より)
さらにこの感覚を、ある意味で「卒業式の教室」のように「エモい」とまで彼は表現しています。
私は離婚や失業をおすすめしているわけではありませんが、この青年のように「社会からの一時的な撤退」が、ある種の安心感をもたらすこともあるのではないでしょうか。立場や役割、さらには依存先さえも一旦手放したときに、自分が自分に立ち返った。禅的な宗教体験ともいえるかもしれません。ちなみに、売茶翁も晩年には僧侶の身分を返上し、後にはお茶さえも売らなくなったそうです。
私たちは、誰しも「社会的な死」を避けたいと思っていますが、現実にはそれを経験し、孤立と自己嫌悪の悪循環に陥る人も少なくありません。しかし、それは「社会からの一時的な撤退」に過ぎない、と考えることもできるのです。機縁が熟せば、再び布団から出れば良いのです。青年が言った「卒業式の教室」のような「エモさ」も、時には必要かもしれません。
売茶翁の詩に戻ります。「自分の立場を忘れたところに、自分がいた」と感じるための手段として、売茶翁は茶を通してその場を提供してきました。初めに述べたように、現代であれば、喫茶店や飲み屋さん、近所のお寺さん、あるいは歌謡曲にもなった大原三千院がその役割を果たすかもしれません。
ようやく過ごしやすい季節になりました。この秋、立場や役割に縛られず、自分自身を取り戻すための場所で、心のリフレッシュをしてみてはいかがでしょうか。皆さまの日々の精進を祈念しつつ、積極的な「社会からの一時的な撤退」をおすすめいたします。