一杯のコップ酒
(出典:書き下ろし)
「アクの強い人たちの中、お疲れさま!」
2泊3日の某研修会後、とある方が労ってくださいました。しかし私としては、色んな方の「アク」が逆に楽しくもあったので、
「アクって、ポリフェノールが含まれていることもあるらしいですよ。」
と、冗談まじりにお答えしたのでした。
食材の持つアクは、その苦味やえぐみが料理の味を損なう雑味として嫌われています。しかし、そうやってアクを嫌う私たち自身もアクを持っています。人を妬んだり、見栄を張ったり、怠けたり。皆んな、それぞれに自分の中に思い当たるアクがあるはずです。そうして「心をきれいにしましょう」の大号令のもと、お料理と同じように、自分のアクを心の濁りとして取り除こうとするのです。
もちろん、そうやって努力をすることは大変素晴らしいことです。しかし、いくら頑張っても取りきれないアクは、一体どうしたらいいのでしょうか。
「安心」
見慣れた言葉ですが、仏教用語では「あんじん」と「濁って」読みます。実は、この濁点こそ、私たちのアクなのです。
「心をきれいにしましょう」と、取りきれるはずもないアクを完全に取り除こうとする。つまり、濁りのない「安心(あんしん)」を目指し続けることに追い立てられているうちは、本当の安らぎはないのです。
逆に、アクも含めて自分まるごとの味わいとして味わっていく。その懐の深く、大きな味わい方の中にこそ、本当の安らぎがあるということなのです。
「精進料理の明道尼」と呼ばれた村瀬明道禅尼は、特にアクの強いゴボウでも水に晒すのは、せいぜい10分程度にされていました。アクがもたらすゴボウの風味や栄養、そしてアク以外の旨味までも一緒に失われてしまうからです。
たしかに、ほうれん草なども、茹でた後に水に晒しすぎてしまうと、何を食べているのか分からなくなってしまいます。つまり、アク「だけ」を完全に取り除くことは不可能だということ。それは、アクの持つ苦味やえぐみも、その食材の中の他の味と切り離すことができない、食材まるごとの味わいに成っているということなのです。
明道禅尼は自ら「調理に命をかけております」と仰るくらい、精進料理を極められた方でした。そんな中で、お客さまに作り置きのお料理はお出ししないことを身上とされていたようです。そのため、お昼にお客さまのある時などは、早朝から台所のガス台をフル回転させての、てんてこ舞い。どの鍋にも注意を払って、一瞬も気を抜けない時間が続きます。
そうして、ようやく、お座敷にお客さまをお通しして、お料理をお出しすると、まずはお客さまの歓声が上がります。しかし、それも束の間。今度は一気に静まりかえるのだそうです。
それは、そのお料理の美味しさに、ため息こそ出れど、言葉すら出てこないという状況です。
ご著書(村瀬明道『月心寺での料理』)によりますと、明道禅尼は台所で、お座敷のその沈黙にそっと耳を傾けては、ほっとひと息ついて「“コップ一杯の冷や酒”を、グググと一気に飲み干しますの……。」だそう。
「飲み干しますの……。」なんて、お上品な口調ですが、コップ酒の豪快さです。(大好き)
「お坊さんなのに」「しかも尼僧さんがっ……」「台所でコップ酒!」
中には、そうやって眉をひそめる方もおられるかもしれません。もちろん、それくらいは明道禅尼も重々承知の上のことだったでしょう。 しかし明道禅尼は、お料理に精進する「きれいな」自分だけを労うことはされませんでした。自分のアクとも呼べる部分も、まるごとの自分の味わいとして飲み干されていたのではないかと思うのです。
はたして「コップ一杯の冷や酒」は、どんな味がしたのでしょうか。明道禅尼の「安心」されているお顔が目に浮かぶようです。