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水墨画 余白を貴ぶ

(出典:書き下ろし)

 私は学生時代、京都にございます大本山相国寺というお寺で小僧生活をさせて頂いておりました。歴史的にも大変貴重な美術品が多い相国寺で、まず習ったのが掛け軸と襖絵の扱い方でした。
 そのせいかどうか分かりませんが、私は水墨画を見ているととても心が落ち着いてくる気が致します。太い線もあれば細い線もある。ただ黒一色ではなく、そこに濃淡がある。大胆さと繊細さを兼ね備えた水墨画が、十分すぎる余白の中に凛として収まっております。
 昨今水墨画は、禅アートとして世界中の人を魅了しておりますが、なぜ水墨画は、これ程多くの人の心を魅了するのでしょうか。

 昭和を代表する禅僧であります京都大本山妙心寺の管長を務められておりました山田無文老師は、著書の中でこのようなお話をされておりました。

「さきごろ、京都で、ルーブル美術展が開かれました。(中略)とにかく、りっぱなものばかりであります。フランス王朝文化のきわみとでも申しますか、善をつくし、美をつくし、抜をつくし、神をつくし、物と心をつくして完成された、美術の宝庫だと思いました。しかし、われわれ日本人には、あるいはわたくしだけかもしれませんが、それほど親しめないものだと感じました。あまりに完全すぎるのであります。あまりに善美にすぎるのであります。これでもか、これでもかというような、圧倒的充実さにたえられないのであります。われわれ日本人は、もっとゆとりのある、完全をかくした、いわば不完全の美を好むようであります。」

(山田無文『白隠禅師坐禅和讃講話』)

 水墨画には、西洋文化にはない、心の余白を尊ぶ精神がある様に思います。

 私の修行時代の話であります。老師をはじめ20人程の修行僧と共に、朝の日課であるお経を読んでおりました。大きな声で腹から声を出す。代々先輩方から習った様に、一同大きな声でお唱えしておりました。
 お経が終わって本堂を後にする時、老師が一言「お経は耳で読むもんじゃ。」と仰られました。私たちは自分が大きな声で読むことに必死になったばかりに、声を揃えることなくバラバラに読んでしまっていたのです。
 老師の言われた「お経は耳で読むもんじゃ。」とは、「今周りがどこを読んでいるのか、何を読んでいるのか、よくその耳で聞いて読みなさい、自分本位ではいけない、他をよく見てみなさい」という意味でございました。

 現代社会に於いて私たちはあふれる物に囲まれて暮らし、慌ただしい日常の中を生活しております。現代を生きる私たちにとってこれは致し方ないことであるかと思います。ですが、慌ただしい日常だからこそ、山田無文老師が言われたように「いつでも他を受け入れる余白を心に残しておくことが大切」なのだと思います。旅先でお腹いっぱいご飯を食べた時よりも、腹八分目で食べ終えた時の方が「美味しかったなぁ、また絶対来たいなぁ」と思えるように。
 ゆとりある心の車間距離をとって、慌ただしい日常を運転していきたいものです。

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