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無分別のススメ

(出典:書き下ろし)

 子供の成長は親にとって何より嬉しいことです。しかし、まだまだ幼いと思い込んでいる我が子から親に対してテレビで報道される事柄について意見を求められたりすると、その成長に驚きを感じると共に、手元から離れていくような寂しさを感じることがあります。子供の成長を「分別がついてきた」と表現することがあります。今回はこの「分別」について学んでいきたいと思います。

  江戸時代初期の禅僧である盤珪永琢禅師は「分別は惑い有るが故に、分別を備うるなり。無分別智に到れば、分別已然に物を照らし分けて、ついに惑うことなし」つまり「分別とは惑いや迷いがあるから行うのである。相対的な考え方を超えれば、分別を起こす以前に物を見ることができる。そのような心になると惑い迷うことはない」、とお示し下さっています。分別の心が起こってしまうと、私たちの惑いや迷いの原因になってしまうのです。

 では、なぜ分別すると惑いや迷いが起こってしまうのでしょうか? お釈迦さまは『法句経』の中で「勝つ者 恨みを招かん 他に敗れたるも者 くるしみて臥す されど 勝敗の二つを棄てて こころ寂静なる人は 起居ともに さいわいなり」とお示し下さっています。勝者は敗者から恨みを招きかねず迷い苦しみ、また敗者は負けたことに悩み苦しんでしまう。勝敗や善悪などといった分別から離れた者は、苦しみが起こらずこころは穏やかで幸せなことなのだと教えて下さっています。

 今、季節は冬から春へと移り変わる時期です。私のお預かりする願成寺は、神石高原町という広島県東部の海抜550mに位置する自然豊かな場所にあります。広島県と言えば瀬戸内の温暖な気候をイメージされる方もおられるかと思いますが、当地の冬は最高気温0℃の日がほとんどで、最低気温がマイナス10℃の日もある地域です。温暖とは程遠い寒さの厳しい地域で、灰色の空を見上げては「春が来るのが待ち遠しい」という思いになります。春になると太陽が顔をのぞかせ気温が上がり、木々は芽吹きまた花を咲かせ、冬の寒さを耐えて春を迎えた喜びは一入です。しかし、夏になると冬にあれだけ待ち焦がれていた太陽が、今度は憎くて仕方なくなってしまいます。夏の空を見上げては「1日でも早く涼しい秋になってほしい、いっそ冬の方がマシだ」と思ってしまう自分がいます。寒い時には暖かく、暑い時には涼しく……とないものねだりをしている自分に気付いた時に私という人間はなんて自分勝手なのだろうと感じ、いかに自分の都合で物事に一喜一憂しているのかという事がよく解かりました。皆さんにも、このような経験はないでしょうか?

 私たちの心の中には「自分の都合」という身勝手な思いが存在します。その都合によって物事を見るから、これは善くてあれは悪いといった分別が働いてしまいます。しかし、その自分の身勝手な都合というものを差し挟まずにその物事を見た時、私たちはどう感じるのでしょうか? 幕末から明治時代の政治家であった山岡鉄舟居士は「晴れて良し曇りても良し富士の山、元の姿は変らざりけり」と詠われています。自分の都合を差し挟まずに見た世界はきっと「すべて良し」なのではないでしょうか? この「良し」とは善悪などの相対的なものではなく、物事を素直にそのまま受け容れた「良し」です。つまり、ありのままを受け容れていくことこそが無分別なのです。しかし、この心に至るのはなかなか難しいのが現実です。まずは、自分の心の中に「身勝手な自分の都合がある」ということを少し意識して生活してみてはいかがでしょうか?

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