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○○なら当たり前

(出典:『花園』4月号 おかげさま)

 妙心寺第二世である興祖微妙大師の650年ご遠諱がはじまります。遠諱テーマ「少水の魚に楽しみ有り」やキャッチフレーズ「いま、ここを生きるしあわせ」の言葉をポスターや花園会報で目にされることと思います。
 これらの言葉に示された教えはとても大切なものですが、それとは別に臨済宗を含む大乗仏教には「四弘誓願文」というこれまた大事なスローガンがあります。仏教徒の誰もが実践しなければならない誓いを四つにまとめたものです。その四つ目の誓いが「仏道ぶつどうじょう誓願せいがんじょう」、この上ない仏の道を成就することを誓う、という宣言です。
では、その誓いを具体的な実践に移すとしたら、私たちは何をすれば良いのでしょうか。
 もう30年以上前のことになりますが、鹿島アントラーズで活躍していたサッカー選手のアルシンドさんが育毛剤のCMに出ておられました。そのCMから広まった流行語に「友達なら当たり前~」という言葉があります。頭頂部が薄くなった友達に、薄くなってるよと忠告をするというシーンに続いて、後日、忠告してくれてありがとうという気持ちを伝えようとすると、「友達なら当たり前~」と友達らしく肩を組むのでした。友達だからこそ、言いにくいこともきちんと言ってあげられる、当たり前じゃないかというのです。
 この「当たり前~」の話には後日談があります。東日本大震災の後、このCMに出演していたアルシンドさんが、かつてチームメイトだった岩手出身の小笠原選手の地元に慰問に行った時に、小笠原選手が「遠くまでゴメン」と頭を下げると、アルシンドさんは声を荒げて、「ゴメンとか次に言ったら怒るぞ。友達なら当たり前!」と言ったのだそうです。
 もともと、頭頂部が薄くなったアルシンドさんが、「アルシンドになっちゃうよ」と忠告したことで大受けした「友達なら当たり前~」という流行語が、さらに感動を呼ぶ言葉に変わった瞬間でした。
私たちは、この「当たり前」という言葉を、普段意識せずに使っています。「そんなの当たり前じゃないか」「親だったら当たり前」。少し乱暴な言葉だと「当たりめーよ」など、私たちの身の回りに、文字通り当たり前にある言葉です。そして、当然だとか、そうあるべきだ、またはごく普通だとかといった意味で私たちは使っています。しかし、被災地を見舞ったアルシンドさんのように、「友達なら当たり前」と言って、実際に行動できる人は数少ないでしょう。
 先ほど挙げた「仏道無上誓願成」を実現するために何をすれば良いのか、それをわかりやすく言えば、「仏教徒なら当たり前!」のことを実践することにほかならないでしょう。出家と在家とを問わず朝の勤行をすることが当たり前、禅宗なら坐禅をすることが当たり前、妙心寺派の「生活信条」でも「一日一度は静かに坐って……」と言っているではありませんか。「生活信条」なのですから、一日一度坐ることが当たり前なのです。そして坐禅を通じて仏道成就への願いがきっと叶うに違いありません。
 微妙大師650年のキャッチフレーズも、絵空事ではなく、私たち一人ひとりの実践を伴うものであって欲しいと願っております。

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