「素直な心」
(出典:書き下ろし)
数年前にふとしたことからアヒルを飼い始めました。毎日餌をやっているとだんだん慣れてくるようで、私の足下を可愛らしくコツコツつついたりします。思い立って「クワッ」とアヒル語?で呼びかけてみました。すると「クワッ」っと返事を返してくれました。もう一度「クワ」と呼びかけるとこちらを見つめながら「クワ」とお返事。そのあまりの可愛らしさに思わず笑ってしまいました。
『無門関』第十七則に、慧忠国師が侍者の応真を呼ぶ話が出てきます。国師が「おい」と呼ぶと応真は「ハイ」と答えます。再び国師が「おい」と呼ぶと応真は「ハイ」。三度めの「おい」に、「ハイ」とただ返事をしたところ、師は弟子の修行がすっかりできあがっているのだと認めた、というお話です。師は弟子の何を認めたのでしょうか。
普通、誰かに呼ばれる時は相手に何か用事があるときです。だから「おい」のあとには「あれ取ってくれ」とか「これやっとけ」などのご用命があるはずでしょう。
しかし応真は、肝心のご用命のないまま、師の呼びかけに同じ調子で「ハイ」と返事を返しました。もしなにか用があるのなら、この後に「なになにしてくれ」と言うはずですから、呼ばれただけの今は、ただ返事をすればいい、ということなのです。用があるとかないとか、ああこの声は機嫌が悪いなとか、こっちゃ忙しいんだ!
そういうことはその後に考えればいいのです。呼ばれただけの今この瞬間には、ただ「ハイ」と答えるのみでいい。まさに今この時に力を尽くす、即今只今の生き方です。わざわざ三回呼ぶことでこのことを確認した師は、素直な返事ができた弟子を認めるに至ったという訳です。
しかし、もしかしたら国師には特別試してやろうという気はなかったかもしれません。応真を呼んでみた、すると応真からは素直な無心の返事が返ってきた。思わず国師も再び無心の呼びかけをしてしまった。ただ呼び、ただ応える。まるで山々にこだまする声のように、そこにはなんの作意も、損得も、迷いも悟りすらありません。お互いが素直な心で呼びかけ合って、師と弟子が同じ思い、同じ禅境の中なかで生きているのです。まるで言葉のいらない、仲のいい親子のやりとりをみるような温かさを感じるのです。
禅の修行は即ちこの素直な心を獲得することにあります。獲得というとどこから持ってきて身につけるように感じますが、そうではありません。作意損得などの分別を捨て、知識に頼らず、何者にもよりかからない、むき出しの自分ともいえる究極の自主性に立ち返ることなのです。他者と私の間に何にも引っかかるものがないからこそ、突然の呼びかけにも素直な返事を返すことができるのです。そういう素直でまっさらな心になって、ただ今、この瞬間を大事に生きましょう、というのが禅の生き方です。そうすると慧忠国師と応真のような、温かく穏やかな毎日になっていくのでありましょう。
返事一つの中にも、毎日の様々なところで、禅の生き方を感じることができます。そう思いながらアヒル君を見ていると、その素直さに思わず応真の返事を思い出してしまいました。そういえば無邪気な犬をみて「この犬にも仏性が!?」と聞いた人がありましたね。私も同じ気持ちです。「このアヒルにも仏性が!?」。無邪気に真っ直ぐこちらを見つめる一羽を前にして「ムー」だの「ウー」だの一喜一憂するのは一旦やめて、アヒル君だけでなく、どんなときに誰とでも、素直にやりとりができる、そんな穏やかな生き方をしてみたいものです。