「果てしない道を」
(出典:『花園』7月号 おかげさま )
仏教は山登りに例えられることがあります。同じ山に登るにも、険しく厳しい登り道、なだらかに進む迂回路、頂上を目指すには様々なルートがあります。そのどれも高みを目指すもので優劣はありません。また、山脈の場合には、その連なる山々に際限はありませんから、求めれば求めるほど歩み続けることができます。
随分前のある夏、富士山に登りました。出発前に麓で見上げた雄大な富士山頂。7合目に到達して見えた頂上の景色、そして8合目9合目と辿り着くたびに見上げた景色。同じ富士山の姿が立つ場所で全く違うものに見えて、そのたびに感動を覚えたものです。もちろん、7合目から上での視界も素晴らしいものでした。特に頂上付近からの視界は思いもよらない美しさでした。ゴツゴツした岩場での障害、道行く人との出会いなど、登る過程をも楽しみながら、一歩一歩進んでいくのが登山の醍醐味であり、それは仏道にも通じるのではないでしょうか。
尊敬している年配の大和尚さまがいます。勉強会、仏跡巡り、地域交流と様々な行事に参加されている活動的な方です。勉強会では若手や中堅の和尚さまに混ざって、静かに最前列に座ってメモをとっておられます。「これは初歩的なもの」「これは専門的なもの」などと、内容によってあれこれ取捨選択している様子もなく、時間が空いていれば必ず来られているのです。先日は、他県の由緒寺院に行かれた時に感動を受けた話を「目から鱗の発見があってな」と、満面の笑みでお話しくださいました。思わず「どうしてそのような心持ちでいられるのですか?」とお尋ねすると、「私にとっては一日一日が愛おしいから、一分一秒を無駄にしたくないのだよ」と返され、目が覚めるような思いでした。
もう禅宗の重鎮として、山登りで言えば9合目や頂上に近いような立ち位置から様々なことを見ておられるのだと思います。それでもなお、どんな些細な事柄にでも新たな発見や視点を常に求め、いつも「自分の理解はこれで良いのか」と疑い、自分を新しくしようとしておられ、その姿勢に、我々はいつも導いていただいています。
日時計を研究していたアメリカの作家、アリス・モース・アール(1851~1911)は、1902年の著作『Sun Dials and Roses of Yesterday』 の中で、次のように述べています。
The clock is running.
時計の針は刻一刻と進んでいます。
Make the most of today.
今日を大切に生きてください。
Time waits for no man.
歳月人を待たず。
Yesterday is history.
昨日はヒストリー<過去>。
Tomorrow is a mystery.
明日はミステリー<神秘>。
Today is a gift.
今日という日は贈り物です。
That’s why it is called the present.
だから現在のことをプレゼントと言います。
アリスは、英語のPresentという単語にある、「現在」と「贈り物」という二つの意味にかけて記しています。日時計が太陽の光を受けて此の時を刻むように、今日という日は私たちの心に「今ここ」の大切さを刻んでくれているのです。私たちは「明日が来る」ということを当たり前のこととして捉えてしまいがちですが、明日は誰にも約束されていません。今日が特別なギフトと思えば、どれほど1分1秒が愛おしく、毎日のふとしたことに感動することでしょう。そこには、自分にも他者に対しても、ていねいに過ごしていく生活があるはずです。
私も年をとったのでしょうか。「時間は限られている」ということを最近多く感じるようになりました。そうであるなら、たとえどんな状態にあろうと、与えられた命を無駄にすることなく、今ここに打ち込んでいきたい。道遥かですが・・未だ見ぬ視界が広がることを願って歩んでいきたいと思います。