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「冷暖自知~みずから、手を伸ばし、体験する」

(出典:書き下ろし)

禅の教えの中に「冷暖自知」という言葉があります。

例えば目の前にあるコップに水のような液体が入っていて、その温度、つまり冷たいか温かいかを知りたいとします。

湯気が出ているから熱いとか、コップのまわりが汗をかいているから冷たい、といった情報で判別できないものとした場合、実際にその液体に手を突っ込んでみなければ冷たいか温かいかを判断することはできません。

この「自分で手を突っ込んでみる経験」、すなわち自分自身の体験が何よりも重要なのだというのが、禅の教えです。

 

例えば、子供が自転車の練習をするときに、いくら大人がバランスの取り方やペダルのこぎ方を教えても、すぐに上手に乗れるようになることはありません。子供自身が実際に自転車にまたがって練習し、ときには転んだりしながら自転車に乗るという経験を積み重ねることで初めて、バランスの取り方や上手な操作方法などが自分の経験として身につき、ようやく乗りこなすことができるようになります。自転車に乗ることができる大人の目から見ているとじれったく感じるのかもしれませんが、試行錯誤する子供の体験は私たちが代わりにできるものでもありません。

 

修行道場に入門してから1年ほど経ったときに新しく入門した後輩を指導する立場になりました。仕事の効率が悪い後輩を見ているとあれこれ口出しをしたくなるのですが、上の先輩からはあまり多くを言わないようにという指導を受けていました。「おまえさんは自分に何があっても最後まで後輩の面倒を見続けるつもりか?」と指導を頂いたのは特に印象に残っています。自分が口を出すことは、修行という、「体験の機会」を後輩から奪っていることにもつながっていたのだと反省しました。教えてあげることがおしなべて優しさであるとは限らないという学びがありました。

 

悩み苦しみを抱える人に思わず手を差し伸べたくなることは仏の慈悲の心であります。同時に、安易に手を差し伸べるのをぐっとこらえ、どうか良くあってくれと優しく見守るのもやはり尊い慈悲の心でありましょう。ものの善し悪しを自分の体験をもとに判断できるからこそ、それは様々な形で他者への優しさにつながっていくのだと思います。誰かから教えてもらった知識でない、自分自身の体験でもって「冷暖自知」していくことが、こころを調えていくのには必要なことなのです。

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