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自分さえよければそれでいい?―餓鬼の世界に落ちる人の特徴

(出典:書き下ろし)


人は誰しも、「自分はちゃんと生きている」と思いたいものです。日々の生活で、人に迷惑をかけず、真面目に過ごしていれば、それで十分だと感じるかもしれません。
でも、ふとしたときに、自分の中から思いもよらぬ気持ちが湧きあがることがあります。今回は、「餓鬼の世界に落ちる人の特徴」ということについて皆さんと一緒に学びたいと思います。
仏教では、人は生まれ変わり死に変わりしながら、いくつかの世界を巡っていくと説かれています。
そのなかのひとつに、「餓鬼(がき)」の世界があります。いつも飢え、渇き、満たされることのない苦しみの世界です。
では、どんな人がそのような世界に引き寄せられるのか。それは、欲ばかりを求めて、自分さえよければいいと思ってしまう人だと教えられています。
これは、特別な誰かの話ではありません。私たち一人ひとりの心の中にも、そのような気持ちはあるのです。そして、厄介なのはそれに気づきにくいことです。
「私はそこまで欲深くない」と思っていても、日々のなかで無意識に自分の都合ばかりを考えていることがあるのです。
では、そうした心からどうすれば離れることができるのか。その手がかりになるのが、「施し(ほどこし)」という行いです。
自分の持っているものを、少しでも他の人のために使う。それは物だけでなく、心配りや気づかい、思いやりでもかまいません。そうした心をもつことで、私たちの心のあり方は、少しずつ変わっていくのです。
「施餓鬼(せがき)」という仏事は、餓鬼に施しをする儀式ですが、実は私たち自身の心を見つめ直す、大切な機会でもあるのです。

こんな体験をしたことがあります。ある日、博多から大阪へ向かう新幹線に乗ることになりました。博多は始発駅なので、「自由席でも座れるだろう」と思って切符を買いました。
ところがホームに上がってみると、自由席にはすでに長い列。案の定、私は座ることができず、立ったまま移動することになりました。そのとき、心に浮かんだのは―
「立っての移動は嫌だな」という思いでした。
その気持ちはだんだんと不満に変わっていき、思い通りにいかないことに、苛立ちが募っていきました。まさに「自分さえよければいい」という心です。
私はそのとき、餓鬼のような心に引き込まれていたのだと、後になって思います。
ふと前方を見ると、ある乗客がすっと立ち上がり、年配の方に席を譲っていました。それはとても自然で、さりげない行動でした。
その姿を見た瞬間、自分の心がストンと落ち着いたのを覚えています。自分さえよければいいと思って不満を抱えていた私と、黙って席を譲ったその方。同じ新幹線の中で、同じように立っていたとしても、その心のありようはまるで対照的でした。
席を譲ったその方には「不満な心」はなかったでしょう。それは「施しの心」だったから、新幹線で立ったままの移動も、きっと辛くは感じなかったのだと思います。そして、そんな思いやりの姿に触れた私の心も、少しずつ穏やかさを取り戻していきました。
仏教では、「この世のすべては自分の心によってつくり出されている」と説かれます。同じ状況でも、不満の心で見れば、世界は不満に満ちて見えます。誰かを思いやる心で見れば、世界はやさしさに包まれて見えるのです。
餓鬼のように飢えた心も、仏のように穏やかであたたかい心も、どちらも、私たちの中にあります。
自分の中にある餓鬼の心に気づくこと、そして、そこに仏の心があることを思い出すこと。施餓鬼法要は、自分の中にある仏の心に気づかせてくれる、そんな時間なのだと感じています。

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