法話

フリーワード検索

アーカイブ

『日々学ぶこと』

(出典:花園誌9月号 おかげさま)

 儒教の始祖である孔子をまつった廟が日本には数カ所あります。そのうちの一つが佐賀県の多久たく市にあります。地域の人は聖廟せいびょうと呼び、田舎の数少ない名所であり、みなさんが誇りにしておられます。春秋には孔子とその弟子たちのために釈菜せきさいという祀りを三百年来行っています。江戸時代から多久では東原庠舎とうげんしょうしゃという学舎を建てて、武家も町人も差別なく『論語』を熱心に学んでいました。今で言う生涯学習の場です。「多久のスズメは論語をさえずり、村人に道を聞いても行先は教えずに人の道を説く」とまでいわれていました。私の祖父は多久市の出身だったので、『論語』を多少暗記していて、初孫だった私を背中に負ぶっては子守歌のように、「師のたまわく、義を見てせざるは勇なきなり」「学びて思わざればすなわちくらし。思いて学ばざればすなわちあやうし」「巧言令色こうげんれいしょくすくなしじん」などと、呪文のようにくり返し唱えていました。私も、意味は不明のままオウムのように口まねで呟いていました。後年、出家し禅の修行を始めた時に、禅宗では『論語』の言葉をたくさん取り入れて活用しているのに気がつき、小さいときの子守歌?が随分と役に立ちました。

花園法皇さまについて、今上きんじょう陛下が昭和57年、学習院大学を卒業されるときに記者会見で話された言葉があります。花園法皇さまは次の天皇候補である皇太子に向けた『誡太子書かいたいしのしょ』という戒めの言葉を遺されています。今上陛下はその内容を踏まえながら、「『誡太子書』の中で花園法皇は、まず徳を積むことの必要性、その徳を積むためには学問をしなければならないということを説いておられるわけです。その言葉にも非常に深い感銘を覚えます」と述べられました。ここで大事なことは、博学になるために学問をするということではなく、徳を積むために学問をするということです。
ある高僧のところへ仏教学者が訪ねてきて得意の仏教学を延々と披露したそうです。高僧は、「へ~、ホ~、フムフム」と聞いておられましたが、話くたびれた学者さんがそろそろ帰ろうとする時、高僧が、「しかし、あんたは牛のケツじゃのう。」と言われました。学者さんは、「牛のケツ?」と聞き返しました。高僧は、すました顔で、「牛のケツじゃよ。モウの尻じゃよ。物知りじゃよ。」と言ってニヤッと笑われたそうです。

さて私は、意味不明な『論語』の言葉を繰り返し聞かされたことによって、意味は分からないものの、知らずしらずその言葉が頭の中に入っていたのですが、後になって『論語』を自分で読んで学ぶことにより、その意味を知ることになりました。知っていることを、自分を認めてもらうために他人に話すのではなく、学んだことが身に付き、自然に日々の生活ににじみ出てくるようになるのが徳を積むことであり、本当に「学ぶ」ことなのだなあ、と思うこの頃です。

Back to list