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「幸せの姿」

(出典:書き下ろし)

 若い頃は、カッコいい車が欲しい、大きな家に住みたい、沢山お金が欲しい等、いろいろな欲望がありましたが、還暦を過ぎると、夕食に呑む酎ハイ一缶で幸せを感じます。昔、戦争帰りのご老人が「わしゃ、生きているだけで幸せだ!」と言ってましたので、まだまだ私は未熟者のようです。
歌人の岡本かの子さんが素晴らしい短歌を残しております。

 

年年に我が悲しみは深くして
いよいよ華やぐ命なりけり

 

 年老いてくると失っていく悲しさが増えてきますが、にもかかわらず命が華やぐというのですから、これ以上の幸せはないでしょう。この歌に「幸せの姿」のヒントがあるように思います。

「年年に我が悲しみは深くして」老いてくると体力、気力、記憶力等の衰えが隠し切れなくなります。病院にお世話になる回数が増えてきます。身近な人が向こうの世界に旅立っていきます。これは良く解ります。しかし「いよいよ華やぐ命なりけり」と詠っているのはどういう事なんでしょうか。幸福の「福」という字は示偏(しめすへん)に一・口・田んぼと書きます。示偏とは神様から賜るという意味です。一口の田んぼとは命を支える分の食べ物という意味で、命があるだけで福=幸せの姿なんですね。

 

 しかし、私たちは命があるだけで幸福とはなかなか気付けません。戦争で生死の境を嫌というほど味わったあの老人は、「生きているだけで幸せ」という人間のありのままの姿に気付くことができたんですね。これを仏さまの心、おかげさまと呼びます。

「忍是仏心」という言葉がありますが、「忍」の字は心の上に刃があって、不安、迷いなどの煩悩を断ち切って、ありのままの姿、仏さまの心、おかげさまを浮かび上がらせてくれるんです。
それは足が悪くなれば杖が有難い、耳が悪くなれば補聴器が有難い、歯が悪くなればお粥が有難い。失くしたものを羨むのではなく自分を支えてくれるおかげさまとの出会い。それが華やぐ命であり、幸せの姿なんです。

 

 ある施設のお婆さんは、手にスプーンを縛ってもらってそれでご飯を食べていた。ところが手が痛んで自分では食べられなくなった。そしたらそのお婆ちゃんすっかり悲観して生きているのが嫌になってベットから転げ落ちて死のうとしたが死ねなかった。それを聞いた施設長がお婆ちゃんを叱ったんです。「お婆ちゃん、お前さん眼が見えるじゃろ、耳が聞こえるじゃろ。もったいじゃないか。仏さまがもっと生きろと言っているんじゃ。その目でテレビを見て楽しみなさい。その耳でラジオを聞いて喜びなさい。まだ死ぬのは早い。テレビを見てラジオを聞いてきれいな心になりなさい。まだまだ仕事が残っておるんじゃ。お婆ちゃん物が言えるじゃろう。一所懸命「南無阿弥陀仏」を唱えなさい」と叱られた。
それからお婆ちゃん、もう死ぬのを止めて念仏を唱えているそうです。失ったものも羨むことなくありのままの自分を受け入れた時に自分を支えてくれているもの、おかげさまに出会えたんですね。幸せの姿を見つけたんです。

 

 幸せの姿は、どんな状況になろうともありのままの自分の姿を受け入れることができるならば、仏さまの心、おかげさまに出会うことができるのです。それは、足が悪くなれば杖が有難い、耳が悪くなれば補聴器が有難い、歯が悪くなればお粥が有難いと思える心です。歳を追うごとに失っていくものが増えてきますが、その度に自分を支えてくれているものとの出会い、おかげさまに気づくことができるでしょう。それは生きているのではなく多くのものに支えられ生かされて生きている命の自覚なのです。

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