積みあげてゆくべきもの
(出典:「瑠璃燈」37号)
徳 ―人の器― というテーマを考えたとき、明治の剣豪 山岡鉄舟居士(1836―1888)のことを思い出しました。有名な江戸城の無血開城に尽力するなど生涯「無我・至誠」を貫いた方で、剣だけでなく、禅や書などにも卓越した才能と見識を発揮された大いなる徳の持ち主です。
廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたころ、鉄舟居士に次のような逸話があります。
ある日 道場に来た知人が言いました。「鉄舟さん そんなに神仏を信じたってしようがないですよ。私は毎朝 神社の鳥居で立ち小便をしてきますが全くバチなどあたらずごらんの通りピンピンしています。」 それを聞いた鉄舟は静かにこう答えたそうです。「立ち小便は犬や猫がすることだよ。武士が礼拝もせず、逆に鳥居に立ち小便だと‥‥犬や猫になりさがっているあんたには、すでにバチが十分すぎるほど当たっている!」
数年前に、有名な寺社の国宝や文化財などに油をまいたふとどき者がいました。最近ああいうたぐいの輩が実に多い。TVニュースを聞いた時、真っ先に頭に思い浮かんだのがこの山岡鉄舟居士の逸話でした。
犯人はきっと鼻で笑うでしょう。「バチがあたる? ばっかじゃないの‥‥」と。逆に防犯ビデオの死角を探し、監視員の目を盗んで、おもしろ半分にいたずらしても、自分の素性がばれず、「超ラッキー!」「俺って天才!」とうぬぼれてるかもしれません。
でも明治生まれのばあちゃんがよく言ってました。
「お天道様は必ずみている」「ののさまはちゃんとみている」。
それは古代中国の「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉にも裏付けられたこの世の真実でしょう。
山岡鉄舟はきっと彼に言うでしょう。「どんな理由があったとしても、他人を困らせて嬉々と喜ぶアンタはすでに餓鬼以下だ。アンタの人生にそのしっぺ返しは必ず来る!」
両極端な実例になってしまいましたが、いずれにせよ自業自得(自分の行動や言葉はよいことも悪いことも必ず自分に返ってくる)は、実に本当のことだと最近つくづく思います。
明治の偉人のように大きなことはできません。でも人間として生まれたからには天から授かった智慧や心身を十二分に生かして、人間らしい道を歩まなければ、この世に生れてきたかいがありません。
一歩づつ、少しつづ、自分なりに積みあげてゆくしかありません。