「大いなる抱擁」
(出典:書き下ろし)
「山門をくぐると母の風に逢う」
昭和59年当時、川柳家・田向秀史(たむかい しゅうし)氏が國泰寺檀家役員を務められていたご縁から、同寺大利生塔落慶法要に合わせて、境内の掲示板に寄せられた一句です。それは大変に人目を引き、数年後、境内に句碑として建立される運びとなりました。
秀史氏も幼い頃からお母さまに連れられて、田向家の菩提寺でもある同寺に通っておられたのでしょう。墓前に行かずとも、境内の風にその思い出が浮かび、頭をなでてくれているかのように、お母さまを感じられたのでした。
心量は広大にして、猶お虚空の如く、辺畔有ること無し
(中川孝『六祖壇経』p152より)
ここで説かれる「心」とは、単なる思考や感情のことではありません。
風が吹き、草木が育ち、鳥が鳴く――そのすべてを、そう在らしめている「大いなるいのち」のことです。
この「大いなる」とする所以は、その“隔てのなさ”にあります。隔てがないからこそ「大いなるいのち」は森羅万象・宇宙のすべてにはたらいています。
もちろん、私たち人間も例外ではありません。身体、その一挙一動、さまざまな思い、生死に至るまでも、すべて「大いなるいのち」のはたらきです。
坐禅で、呼吸を一定に調えてみようとすれば、よく分かります。どうしても、長い息・短い息が入り交じり、意識しても機械のように精密にコントロールはできません。「私の!身体で、私が!呼吸をしている」のではないと思わされます。
そして、そう“思わされること”自体も、また「大いなるいのち」のはたらきなのです。
つまり、自身にはたらく「大いなるいのち(=心)」ならではの“隔てのなさ”で、「大いなるいのち(=心)」そのものを自覚していくのです。
先述の秀史氏は、その心で、境内の景色・風・ご自身までも隔てなく包み込む「大いなるいのち」の中に、お母さまをご覧になったのでした。
「大いなるいのち(=心)」とは、自他・生死・有形無形の隔てさえなく、無限に広がっているのです。
立てなくなってはじめて学ぶ
立つことの複雑さ
立つことの不思議
重力のむごさ優しさ
支えられてはじめて気づく
一歩の重み 一歩の喜び
支えてくれる手のぬくみ
独りではないと知る安らぎ
ただ立っていること
ふるさとの星の上に
ただ歩くこと 陽をあびて
ただ生きること 今日を
ひとつのいのちであること
人とともに 鳥やけものとともに
草木とともに 星々とともに
息深く 息長く
ただいのちであることの
そのありがたさに へりくだる
(谷川俊太郎『ただ生きる』)
大病を経験された方の中には、ご自身の病を苦々しく思ったり、命の危険に恐怖を感じた方もおられるかもしれません。また、ご年配の方の中には、不自由になりつつある身体に嫌気が差し、手助けをされることに遠慮や後ろめたさを感じる方もおられるかもしれません。かくいう私も体調を崩しがちで、情けなく悔しく思うことがあります。
しかし、そんな否定的な苦しみの根底には、「私の!いのち」「私の!身体」という決めつけがあるのではないかと思うのです。
そこで、せっかくの「大いなるいのち」たる心です!
――ただいのちであること
その“隔てのなさ”に任せてみます。
すると、生老病死、思い通りにならないことに、「私の!いのち」ではなかったと気づかされます。
支えてくれる手のぬくもりから、すべてに通う「大いなるいのち」が見えてきます。
そして、自分自身を、そのすべてとともに、無限大の“一つの”「大いなるいのち」の姿として見ることができるのです。
苦楽も、生死も、隔てなく、すべてを受け入れてくれている、その中に、自身もまるごと抱かれて、安らぐことができるのです。
どなたにも、この安らぎを感じられる「大いなるいのち」たる心がはたらいています。
“隔てのなさ”とは、無限大の抱擁なのです。