看脚下
(出典:書き下ろし)
近年街中でよく見かけますのは、スマートフォンの画面に視線を落としながら道を歩いておられる方々です。様々な通知やニュース等に常に心を奪われて足元がおろそかになっており、まさに「地に足がついていない」状態だといえます。
禅寺の玄関をくぐると「看脚下」と書かれた木札が置かれているのを目にされたことがあるのではないでしょうか。看脚下とは文字通り「脚下を看よ」となり、そこから転じて「履物を揃えなさい」という意味合いもありますが、禅の教えではさらに深い解釈がございます。
これは今から約900年前の故事に由来します。中国宋代に五祖法演という禅僧がおられました。ある日、三人の弟子と夜道を行こうとした時、突然一陣の風が吹き、手にしていた行灯の灯が消えてしまいました。一瞬で辺りは真っ暗闇になり、一歩も前に進めない状況になりました。そんな折に法演禅師は弟子達に対し「暗い夜道を歩く時は灯りが必要となる。さあ、今この暗闇の中をどのように進むのか」と迫りました。弟子達はそれぞれに智慧を絞り自らの心境を一句に込めて述べますが、禅師はなかなか頷きません。最後に圜悟克勤が答えた「看脚下」という一句に対してのみ、法演禅師は「その通りだ」と絶賛したといいます。
先行きの全く見えない真っ暗闇の中、最も大切なのは自己の脚下を見つめることである、すなわち人生において岐路に立たされた時に頼りになるのは自分自身であるということです。迷った時にはつい他にその答えを求めて右往左往してしまいがちですが、そんな時こそ自己を見失わぬよう、自らの心をしっかりと見つめ、着実に前に進むことが肝要なのです。
さて、これは私事にはなりますが、一昨年の2月に私は不慮の交通事故に巻き込まれ緊急入院をいたしました。当初は首の神経を傷めた影響で手の痺れや握力の著しい低下があり、日常生活にも支障をきたすような状況でした。突然降りかかった災難に私は茫然自失となり、ただ病室で天井を眺める日々が続きました。そんな私の気持ちとは裏腹に、作業療法士さんによるリハビリが始まりました。手先を使った単純作業をひたすら繰り返すのですが、これがなかなか思うようにできません。以前は当たり前にできていた事ができないという現実に愕然としながらも、入院生活の中で私の杖言葉となったのが「看脚下」でございました。とにかく自暴自棄にならぬよう、自分が置かれている現実をありのまま受け入れ、今できることを地道に行うしかないという意識を持つように努めました。その結果、リハビリに対しても正面から向き合い取り組むことができるようになったと思います。お陰様でその後体の方は順調に回復し、無事に社会復帰することができました。
人生はまさに諸行無常、私のように突然逆境に立たされることもございます。
現代はスマートフォン一つで膨大な情報を得ることができるため、そういったツールに問題解決の糸口を見出そうとして、つい頼ってしまう事もあるのではないでしょうか。
しかし、どういった状況に置かれたとしても、最後に頼りになるのは自分自身です。その救いを外に求めることなく、自らの脚下を見つめながら一歩ずつでも歩みを進めていく、「看脚下」の心構えが大切なのではないでしょうか。