法話

フリーワード検索

アーカイブ

宇治少年院

(出典:「瑠璃燈」38号)

 黄檗山の南側裏山に1947年に開所された宇治少年院があった。私の小学生頃には社会全体がまだ裕福ではなく、特に少年院などの施設もさぞ劣悪であったろうと思われる。その頃には脱走する少年も多く、夜に脱走があるとサイレンが鳴り、サーチライトが照らされる様子が法林院からも見え、家族が一瞬緊張し、耳を澄ましているとお寺の前の道を走り抜ける足音がし、その後に4、5人の集団で追いかけていく職員や警察の方の話し声が聞こえるのである。昼間の作業時間に逃げるとよく黄檗山の山内のお堂の中に逃げ込み、夜になるのを待って暗くなってから遠くに逃げるようであった。宇治少年院は刑としては比較的軽い少年が収容されていた。私の学生時代でも電車で手錠をはめられた少年が職員に両脇を固められ手錠が直接見えないように上着などを腕にかけて歩いていくところをよく見かけたものである。その後、大学の先輩が矯正指導官として赴任しておられたので時々少年院を訪問することがあったが、2008年3月に役割を終え閉鎖された。

 この少年院の建っていたところは、黄檗山創建時は境内地で、塔頭が沢山あったところである。それ以前は明治27年に陸上自衛隊宇治駐屯所と京都大学黄檗学舎の所に宇治火薬製造所ができ、その火薬を貯蔵するための半地下の建物が山手に沢山造られた。そのため宝蔵院の鉄眼版木蔵をはじめ多くの塔頭寺院は山内の現在の場所に国の政策により集団移転させられたのである。今では宝蔵院跡は黄檗病院になり、火薬の貯蔵庫はプールや体育館、野球場やラクビー場になっているが、少年院の正門とその周辺は以前のまま残っている。

 ところで、私は昭和60年頃に塔主という開山隠元禅師をお守りする役を引き受けたことがある。この役割は毎朝、開山堂でのお勤めと周辺掃除を行うのであるが、開山堂周辺には観光客の休憩場所がなかったので陶器で創ったイスとテーブルを置き、その上に大学ノートを置いて自由に感想文を書いてもらうことにした。そのノートの中に、少年院の刑期を終えて迎えに来られたお母さんの文章があった。「少年院での生活が終わり、子供を迎えに来て帰り道に立ち寄りました。山内を歩いているうちに、やっと心を打ち明けて親子の会話ができました。」といった感謝の気持ちを表したものでした。少年が反社会的な事件を起こしてしまった原因とそれを受け止めた家族の苦悩などを話し合いながら、これからの生き方について話し合う機会になったことが切々と書いてあり心が熱くなり泣けてきました。この文章は以前にも「琉璃燈」に書いたことがありますが、黄檗山全体の持っている静寂さとお釈迦さんをお祀りしている大雄寶殿を中心に各堂宇の重厚さがこの親子に心を開くきっかけなったと確信しています。

 このような役割をこれからどのように守っていけるのか黄檗周辺の変化を受けながら宗門人として大切にすべきことを求めたいと思っています。

Back to list