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希望を持って生きる

(出典:花園4月号「おかげさま」)

少水しょうすいうおたのしみり」の「少水の魚」とは、いつ干上がるとも知れない浅い水たまりに生きる魚を指します。そこには、この無常の世に生まれ、日々死に向かう私たち自身の姿が重ねられています。『法句経ほっくきょう』の原文にれば、常に死に瀕している存在である私たちに「楽しみはない」ということになりますが、興祖微妙大師こうそみみょうだいしは、死んでしまうことが決まっている人生にも、真の「楽しみ」があるというのです。楽しみというのは、世間の苦楽を越えた「楽」の境地を指します。

私はこの意味を、ヨーロッパで第二次世界大戦中あるいは戦後、祖国を離れ異郷にさまよう人間の苦悩を描いた、ルーマニア生まれの作家ゲオルギウの『第二のチャンス』に収められた「一つの世界」に触れたとき、さらに深く味わうことができました。

登場人物のピラとマグダレナが、地面に頬をつけ、弾丸がくさむらをかすめ頭上の樹に当たるという絶体絶命の場面で、ピラは「たとえ世界の終末が明日であっても、私は今日リンゴの木を植える…」という言葉を口にします。著者はこの言葉をマルチン・ルターのものとして紹介しますが、実際にはルターの著作には言葉の出典が見当たりません。それでも、この言葉が語ろうとしている精神は、重く胸に響きます。

私たちは日常においても、それぞれ重荷を抱えながら、希望の花を大切に育て、新しい可能性を探っています。宿命的な状況の中にあっても、希望なくして生きることはできません。どれほど厳しい環境であっても、心にわずかでも余裕を持ち、新しい道を探ろうとする働きがあるからこそ、そこに活路を見いだすことができます。そう考えると、「たとえ世界の終末が明日であっても、私は今日リンゴの木を植える…」という言葉は、「最後の瞬間を支えるものは希望である」という意味であったのではないかと思うのです。

「少水魚有楽」の「楽」という語は、世間の苦楽を越えた「楽」の境地ですが、漢字の持つ意味を考えると、「ねがう」という意味もあるのだと気づかされます。

私は、毎年5月のゴールデンウィークに、群馬県の北軽井沢にある坐禅堂の掃除にでかけます。軽井沢駅からバスで40分。標高1000メートルを超えるそこは、まだ寒く、遅れて桜の花が咲きます。林の中の桜は、大きく豪快に咲きますが、誰一人見ることはありません。いっぽう、街の中で咲く桜は、多くの人たちに見られています。どちらの桜も、二、三日の違いはありますが、花を咲かせます。林の中の桜は、誰にも見られず評価されない桜、街の中で咲く桜は、多くの人に見られ、「きれいだ、きれいだ」と評価されている桜。評価される、評価されないに関係なく、今、ここでなすべきことをひたむきに行うところに、自然から学べる真理の一端があるように思います。

春は心新たに希望を胸に抱くことも多い時期ではないでしょうか。反面、春になっても心がいまひとつ優れないこともあるかもしれません。

ゲオルギウはリンゴの木を植えると語りましたが、私たちはどのような場に置かれても、桜のようにひたむきに咲きたいものです。そして、「希望」すなわち「ねがい」を持ち続ければ、いま、ここを生きるしあわせを日々感じられることでしょう。

 

 

〈参考文献〉

『第二のチャンス』ゲオルギウ・著 谷長 茂・訳( 筑摩書房/1953年)

 

 

 

 

 

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