「最後のかぼちゃ」
(出典:書き下ろし)
先日、知り合いが二歳の子と一緒にお寺に来てくださいました。お茶とお菓子をお出ししたところ、驚くことに、その子は食べる前にきちんと手を合わせ「いたぁだきますぅ」とたどたどしく言ったのです。心が温かくなりました。
禅宗では食事の前に『五観の偈』というお経を唱えます。これは食事をいただくにあたり、五つの心構えを示したものです。その第一に「一つには功の多少を計り、彼の来処を量る」とあります。円覚寺管長横田南嶺老師の意訳によりますと、「一つには、この食事が食膳に運ばれるまでに幾多の人々の労力と神仏の加護によることを思って感謝していただきます」という意味だそうです。
例えばお米。毎日何気なく食べておりますが、一粒の米でも私たちの口に入るまでには大変な手間がかかっております。米という字を分解すると、八十八になります。これは農家の方々が一年を通して一生懸命にお世話をされた数なのです。いえ、八十八どころではないでしょう。それ以上にご苦労なさっていることと思います。
また、人の手だけで作物はできません。肥沃な大地に根を張り、適切な時期に雨が降り、暑過ぎず寒過ぎず、すくすく育つ。天地の恵みによって、美味しいお米ができあがるのです。
このように、私たちが毎日いただく食事は多くの人のご苦労と天地の恵みによって、いま目の前にあるのです。食前に先ず「一つには功の多少を計り、彼の来処を量る」とお唱えすることで、食材のありがたさを心の眼で観て取るのです。
食材といえば、円通寺にいつもお野菜をご供養くださる男性がいらっしゃいました。その方は定年退職を機に畑を借りて、ご夫婦で野菜を育てることを生き甲斐にしておられました。水菜、小松菜、じゃがいも、さつまいも、大根、蕪、人参・・・。どれも本職に負けないくらい立派なもので、いつも美味しくいただいておりました。
しかし昨年の秋頃、お体の具合がすぐれないというお話を伺い、心配しておりましたところ、今年の一月一日に「主人が亡くなりました」と奥様からお電話があったのです。私は突然の知らせに驚くとともに、もうお会いできないのかという悲しみに沈みました。
一心にご葬儀をおつとめし、七日参りに伺うことになりました。七日参りとはお亡くなりになってから四十九日まで、七日おきに行う追善供養のことです。最近では希望されない方も多いのですが、奥様は「遠方ですが是非お願いします」と強く望まれました。
三七日のお参りを終えて帰る際に、奥様が「美味しいかどうか分からんけど、よかったら食べてください」と、何か入った袋をくださいました。中を見ますと、かぼちゃでした。話を伺いますと、このかぼちゃはご主人様が育てたもので、秋に収穫して小屋に置いてあったのだそうです。お寺に戻って早速炊いていただきますと、抜群の美味しさ。おそらく薄暗い小屋で追熟して、甘味が増していたのでしょう。
でも、美味しく感じられたのはそればかりが理由ではありません。おそらく昨年の春、ご夫婦でかぼちゃの苗を買いに行なって、丁寧に植えられたのだろう。肥料や水を欠かさずやり、つるを整えて、美味しい実がなりますようにとお世話されたのだろう。立派になったかぼちゃを見て、ご主人様はきっと嬉しかっただろう。そして残された奥様は、どのようなお気持ちでこのかぼちゃを抱えたのだろう・・・。そういったことに思いを馳せますと、いつも以上にありがたくありがたく感じられました。「一つには功の多少を計り、彼の来処を量る」とはまさにこのことだと腑に落ちたのです。
皆様方がいつも召し上がっているお食事も、同じことであると思います。「一つには、この食事が食膳に運ばれるまでに幾多の人々の労力と神仏の加護によることを思って感謝していただきます」。このありがたいお食事によって、皆様の心と体が健やかでありますように、切にお祈り申し上げます。