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今を気張らにゃ

(出典:「瑠璃燈」38号)

平成8年3月1日、私は京都黄檗山萬福寺の五雲居におりました。この日は宗内僧侶育成のための春期講習会が実施されていました。
 その頃の私は、20数年サラリーマン生活を続けていました。勤務先のオーナーは裸一貫から会社を起こし、業界に確たる地位を築いた立志伝中の人でしたが、惜しくも喜寿を前に急逝、引継ぎに混乱しており、私自身その環境になじめず、少し生き方の選択に迷いが生じていた時期でした。そしてたどり着いたのが五雲居でした。
 五雲居は講習生の宿舎でした。僧侶を目指す若者たち10名余りと、夜は押し入れから布団を出し雑魚寝するような状態でした。周りを見渡すと、私のような中年の受講者は他にはいませんでしたが、一人ご年配の坊様がノートに何かぎっしりと静かに書いておられました。「物静かな方だなぁ」と思っておりました。ちょうど消灯時間となり、素早く寝間着に着替えましたが、かの坊様の下着(ステテコ)をみて、驚きました。昔、おばあさんが縫っていたコタツの下掛け、飛騨の刺し子のように細かく細かくあて布がしてあり、「これは普通の坊さんではないな」と直感したのです。

 2日目、講習が終わって寮舎に帰った時、思い切って和尚さんに聞きました。「おっさま、何を書いておられるのですか?」
「いやぁ気になりますかナ。これは私の日課で、毎日あったこと、見たこと、感じたことを書き残しておるんじゃよ。ここであんたに逢ったのも何かの縁じゃね。どうしてここへ来られたのかな?」
「はぁ私は若いころホワイトカラーにあこがれまして、20数年間サラリーマンを続けてまいりましたが、どうも最近この道に疑問を持ちはじめまして、今回の講習も何かのヒントになればと思ったのです」
「そうですか、今日ここであんた様に逢えたのも縁というものですな。よろしかったら私の歩んできた道を聴いてくれますかな」

和尚さんの話は続きます

「私は三重県のある田舎町の小さな寺の息子に生まれました。坊さんになりたい、寺の後を継ぎたい、などと真剣に考えたこともなく有名な学校を出たでもなく、成りゆきで坊さんになりました。ある日、私にも赤紙(召集令状)が来まして、戦地に行きました。私の部隊は激戦地、第一陣に駆り出され、日本の敗戦がささやかれる中、私たちの部隊は敵陣と正面衝突、仲間が次々と倒れてゆく中、ダ――ンという音とともに私はひっくり返りました。敵の弾丸が私のてっぺんをかすめていきました。頭のてっぺんから頬にかけてなまぬるい血がこぼれてゆきます。私はまだ生きている。あと一寸、頭を上げていれば、自分は生きてはいなかった。何という巡りあわせなのか、ほんとうにご縁なのか。周りを見ると、さっきまで共に戦ってきた戦友たちは、みんな死体となって倒れている。私は戦友の死体の山を踏んで帰還した。私は坊さん。自分のいのちのある限り、ともに戦い、ともに戦地に散った同胞の供養をしなければならない。これが私の使命です。人間、一生のあいだには一度や二度はどうしょうもないことに突きあたるものです。あんたはサラリーマン。いいじゃないですか。ご縁を大切にしてください。今を気張らにゃ」
私が出逢ったその和尚様は、元教学部長で、黄檗宗布教師会会長、三重県不動寺住職 堀木宗詮老師でありました。

昨年6月、職士4年、サラリーマン生活55年、合計59年と健康で卒業させていただきました。おかげさまで来年は喜寿。これは宗詮老師のお導き。ご縁とご恩を忘れてはならん、と思うこの頃でございます。

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