一枚になりきれ
(出典:花園5月号「おかげさま」)
興祖微妙大師に「少水の魚に楽しみ有り」のお言葉があります。水の少ない所にいる魚は、逃げる場所も、十分に泳ぐ余裕もありません。もし水が干上がれば魚の命も終わりです。私たちの目には気の毒にしか映りません。しかし、この少水の魚は、誰でもなく私たちのことです。私たちの誰もが、思い通りにならない環境で、今日明日をも知れない命を生きているのです。では、そんな私たちに有る楽しみとは何でしょうか?
八木重吉の詩があります。
花はなぜうつくしいか
ひとすじの気持ちで咲いているからだ
*
本当にうつくしい姿
それはひとすじに流れたものだ
川のようなものだ
*
人生はいつたのしいか
気持ちがひとつになり切った時だ
なぜ花はうつくしいのか、それは川のようなひとすじの気持ちで咲いているからだと言っています。川はただ高い所から低い所へ、岩などの障害物があれば曲がって避け、とどまることなくただひとすじに海へ向かって流れていきます。花もうつくしいと褒められたいとか、他の花よりきれいに咲こうというわけではありません。何の計らいもなくただ時季が来たから、ただそこに花として咲いている。ひとすじの気持ちで咲いているからうつくしいのだと言っています。
さらに「人生はいつたのしいか」と問います。そしてそれは「気持ちがひとつになり切った時だ」と言っています。「気持ちがひとつになり切る」とは、自分と相手(対象)の区別がなくなるということで、八木重吉とひとすじに咲いている花という二つの存在ではなく、花を見ているうちに八木重吉がうつくしい花そのものになったということです。そしてその瞬間が楽しいのだというのです。
「気持ちがひとつになり切る」という言葉を聞くと、修行道場での生活を思い出します。入門当初、私は慣れない生活への不安と、僧衣は着ているが禅僧になる志も定まっていない、中途半端な気持ちで修行に取り組んでいました。そうした状況でしたから道場での生活は耐え難い辛さでしたし、先輩からも叱られてばかりでした。そんな私に老大師は「一枚になり切れ」と日々仰っていましたが、当時の私にはしっかりと受け止めることができませんでした。
ある冬の寒い朝、托鉢に出ることになりました。地面からの冷気が草鞋を抜けて突きあがり、足を運ぶたびに針で刺されるかのような痛みが走ります。「自分は修行に向いていない」「辛い」という思いが頭の中でグルグル巡ります。しかし托鉢に慣れた先輩は、おかまいなしにどんどん速足で歩いて行ってしまう。遅れて叱られるのも嫌です。「もうどうにでもなれ」と痛みを無視して、必死で足を進めました。しばらく歩くと感覚が麻痺したのか足が痛くなくなってきました。道場を出発した時には一歩が冷たくて、一歩が痛かった。その一歩一歩を意識しなくなり、「辛い」とか「向いていない」とか考えなくなっていました。ただただ無心に歩いている自分があるだけでした。托鉢の後、老大師の言う「一枚になり切れ」という意味が少しだけ分かったような気がして、「自分はここでやっていくんだ」と腹が決まったように思います。
さて、ちょうど今は新緑の季節。木々は太陽の光を受け、風に吹かれ、与えられた環境でただひとすじに若葉を広げ、日に日に緑を深めていきます。「少水の魚」である私たちもまた、置かれている立場、環境を引き受けると腹を決めてみましょう。そして「一枚になり切れた」時、「気持ちがひとつになれた」時、思いがけない安らぎや喜びに出会えることでしょう。それこそが微妙大師の示された「楽しみ」ではないでしょうか。
引用文献 『定本 八木重吉詩集』 八木重吉 著(彌生書房/1972年)