彼女の涙
(出典:瑠璃燈38号)
地域ボランティア活動で80代の元看護師のXさんと知り合いになった。お互い今は元気だがいつどうなるかはわからない点で話が合う。彼女は離婚後、働きながら子育てを終え、定年後に実家に戻られ、田舎暮らしの日々をおくっている。そのXさんが、最近思うことを教えて下さった。
過ぎし日のことだが離婚前後の人間関係の苦しさ、姑、夫、親族等とうまくいかなかったこと、憎み恨んだこと等を思い出すという。夫が親の言いなりだったこと、親族の陰口、自分の親に心配をかけたことなど、限りなく浮かんでくる。そうなると、悔し涙があふれ出て止まらないらしい。ただ関係者は皆亡くなっているせいなのか、田舎で仏壇を守っている暮らしのせいか、日々の暮らしへの感謝の気持ちが強まり、憎しみの感情は弱まった気がするとのことである。
涙の後は、悪いことも、『これでよかったのだ』と心静かに受け入れることが出来るようになったという。そしてここでしっかり生きていかねばならぬという気持ちにもなるらしい。
Xさんに限らず、嫁姑のテーマは尽きることがない。私も新聞で人生相談の欄を読んでいるのだが、30代から70代と各世代の嫁・姑の方たちがそれぞれ相談し、各回答者が世代に応じた適切なアドバイスをしている。30代の嫁には「素直な声を出してみよう」、40~60代の嫁には「むしろ、夫と現実に真正面から向き合おう」「義母と無理に分かりあう必要はない」、70代の姑には「今は高齢者が家族にすがる時代ではない」など、参考になる意見が多い。しかし、このテーマに正解などあるはずもない。
さて、Xさんの場合は、小世界の力んだ人間関係から卒業し、自由な田舎の一人暮らしの中で、自分も元夫も姑も各々愚かさを抱えた未熟な人間であったことを俯瞰的に自然に受け入れることが出来たと言えるのではないだろうか。理屈ではない。深い呼吸や涙や山や雲や花や鳥が教えてくれることもあるのだ。
禅の修行では、「大死一番・絶後に蘇生」を大切にしている。自己を否定し尽くしてこそ、そこに、更に偉大なる自己が肯定されるといわれる。座って座ることを忘れ、立って立つことを忘れ、涙を流して涙していることを忘れて居るのである。このように一日一日を無我夢中に生きながら、照顧却下 お互い精進していきたいものである。
仏陀の言葉を紹介したい。
実にこの世においては、恨みに報いるに恨みをもってしたならば、
ついに恨みのやむことがない。恨みを捨ててこそやむ。
これは永遠の真理である。『ダンマパダ』(法句経) 第5偈。