八転九起転風流
(出典:花園7月号「おかげさま」)
今年は、地方によっては2月頃からダムの渇水対策がなされています。隣りの市からお風呂のお接待を受けて、「お水の大切さをこれほどありがたく感じたことはありません」と、幸せそうに取材に答えておられた方の姿が思い出されます。
蛇口から水が出るぞと母拝み
31年前の阪神大震災の祈りの投句でした。蛇口の水を拝むほどの喜び。日々の当たり前が当たり前でないことを忘れたくないものです。
お釈迦さまは「この世は忍土、堪え忍ぶところ」とおっしゃっています。
しかし、それを踏まえて、苦しみとどう向き合うか、いかに幸せになるかを教えてくださいました。
中学時代に「五十歩千歩」という言葉に出会いました。国語のテストで「五十歩百歩」の意味を問う問題が出された時のことです。自信満々で「大差がないこと」と解答しましたが、まさかのバツでした。
「五十歩百歩」ということわざは、戦で五十歩逃げた者が百歩逃げた者を嗤うことはできない。逃げたことに変わりはなく同じようなものだから、という有名な故事にもとづいています。(『孟子』)
先生は「差は全くないこと!逃げた程度が問題ではなく、逃げるという同じ行為をしている点を考えるべきだ。もし、五十歩千歩ならどうだ?」と問われました。その「五十歩千歩」の問いに「大差がないこと」とは答えられませんでした。行為の差を比較することと行為の本質を考えることとの違いを教えていただいたのです。
大垣市法永寺の故小沢道雄師は通称「足無し禅師」と呼ばれていました。師は雲水修行中の昭和15年に召集を受け、零下40度のシベリア抑留中の凍傷がもとで、満州で麻酔なしの大手術を受けました。その後、担架で引き揚げ途中に荒野に置き去りにされてしまいます。帰国後、両脚義肢装着歩行の苦闘、義足での全国托鉢行脚等々、幾多の苦悩、絶望の淵に身を沈めながらも必死に這い上がろうとされました。そして遂に、他との比較をする愚かさに気づき、堂々たる「お粗末に生きる」という境涯に達せられました。「足無し禅師 本日ただいま誕生!足のないまま今日生まれた。一切文句なし!儂はなくなった足に感謝しとる」と喝破されました。
法要の後、傍らに2本の義足を外し置き、足が痺れて悲鳴をあげている信者さんに「お前さんたちは不便なものを持っとるなぁ」と微笑まれるお姿は、まさに生き達磨さまでした。
私がお見舞いに伺ったのは8度目の大手術の折でした。その時いただいたご著書には「八顚九起転風流 無足」と賛をしてくださいました。
達磨さまの七転八起に掛けて、なお風流なりと楽しんでおられました。お別れして50年、今も私の座右の言葉です。
微妙大師さまは、乱世のなか、創建間もない妙心寺を嗣いで第二世になられました。さぞやご心労の多い日々であったでしょうに「いま、ここを生きるしあわせ」との教えを遺し、励ましてくださっています。人生、苦楽の多少にかかわらず、生かされているこの命を精一杯、ひたむきに務め、楽しもうではありませんか。皆さまのお幸せをお祈り申し上げます。
〈参考文献〉
『足無し禅師本日ただいま誕生』
小沢道雄 著
(柏樹社/1976年)