心の目印
(出典:書き下ろし)
梅雨の季節となりました。梅雨が明けますと東京は間もなくお盆となります。近くのホームセンターには盆飾りが目立つようになりました。側にはおがらが置いてあり、「お盆の迎え火や送り火として焚くこのおがらは、ご先祖様が迷わず帰ってくるための目印や道標としての役割があります」と書かれておりました。
どんな季節にも、どんな場所やどんな人にも必ず目印となるものがある様に、私たちはこの目印を道標として一日一日を送っているように思います。言ってみれば目印とは、私たちが毎日をより幸せに歩んでいくために先人たちが残して下さった智慧ではないでしょうか。
臨済宗の宗祖、臨済義玄禅師は、私たちにこんな目印を残して下さっております。
「臨済栽松」という有名なお話がございます。ある時、臨済禅師が険しい山肌に松を栽えておりますと、そこへお師匠様であります黄檗禅師がお見えになり、臨済禅師に問われました。「お前さんこんな山奥にそんなに松を栽えて一体どうするんだ。」
すると臨済禅師は、「一つにはお寺の景観を良くするためであります。そしてもう一つには後世の人の手本となり道標とするためです。」とこのように答えられました。それを聞いたお師匠様はいたく感心し、きっとこの臨済の代には大いに禅宗が栄えるだろうと確信されたというお話です。
ではお師匠様である黄檗禅師は臨済禅師の答えのどこに感心したのでしょうか。なぜ臨済禅師は敢えて険しい山肌に松を栽えたのでしょうか。
思うにそれは、後世の者がこの険しい山に栽えられた松を見て、たとえ困難や災難に直面した時でも風雪に耐える松の木のように、場所や境遇を選ばずに修行に専念しなければならないという臨済禅師の思いが込められていたからではないかと思います。つまり幸せを外に求めるのではなく、今与えられたこの環境の下で心を整備していくという事。それが目印となる松を栽えるという事ではないでしょうか。
以前、お檀家さんがお墓参りに来られた時の事です。一緒にお茶飲みをしておりましたら、こんなお話をしてくださいました。
「私の母はお花が大好きだったのですが、お花屋さんに行くといつも萎れて元気がない花を買ってくるんです。」
私が不思議に思って理由を尋ねますと、「母は萎れて元気が無くなってしまったお店のお花を、もう一度自分の手で元気にさせてあげるところに小さな幸せを感じていたようです。」とお話して下さいました。
これは私には無い考え方でした。私はより良いお花を選びますし、元気な花がなければ別のお花屋さんに買いに行きます。なぜなら私たち人間の多くは喜びや幸せは外にあると思ってしまうからです。
臨済禅師は修行者に対して、この外に向かって求める心を強く戒めました。外にばかり目を向けてしまうと、他と比べてしまうからです。比べればそこに迷いが生まれ、迷いはやがて悩みとなり、悩みはいつか苦しみとなって終には煩悩へと姿を変えていきます。
詩人の谷川俊太郎さんは「幸せ」という事についてこのような詩を残されております。
「どうすれば、何があれば、幸せになれるかと考えているとき、ヒトはあんまり幸せではない。」
(谷川俊太郎『幸せについて』p.31より)
幸せを外に求めるうちは、自らその幸せを遠ざけてしまうものだと。だからこそ、心に目印となる松を栽えていかなければいけない。場所や境遇を外に求めるのではなく、今この瞬間ここで大切なものは何か、そこに気づいていかなければならない。臨済禅師の松を栽えるお話には、そんな道標となる教えがあるように感じます。
お檀家さんのお母様はきっと、そのお店にあるどの花も可愛らしく愛おしく見えたことでしょう。他と比べるでもなく他に求めるわけでもない。今ここにある小さな幸せに気づける確かな目印があったのだと思います。
今を生きる私たちがより豊かに、より幸せに今日一日を過ごせるように。そんな先人が残して下さった目印に感謝し、これからのお盆をお迎えしたいと思います。