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(出典:「瑠璃燈」38号)

 コロナ禍で生じた社会のあり方、生活様式の変化は、仏事や葬儀にも及び、人の死の現場でも同様であります。無情にも故人との最後のお別れが叶わなかったり、親族・家族葬で友人の参列が叶わなかった話も多々聞きます。そんなわけで、今回は「死」を取り上げます。
 「死」は、「歹+匕(「人」の変形)」からなる会意文字です。「歹」は、部首として「がつ」「がつへん」「いちたへん」「かばねへん」とも言い、意味は肉が削げ落ちてばらばらになった死人の骨や、よくない、不吉なを表します。「匕」は「人」の変形で、「ひざまずいた人」や「人がたおれた姿」を表します。つまり、「死人の骨」の象形+「ひざまずいた人」の象形で、死人の骨(死体)を拝してひざまずいた人を意味し、「しぬ」を意味する「死」という文字が成立しました。この他に、「命が終わる」「おわる」「役に立たない」「いのちがけ」「命にかかわるような危険」を意味し、また文字の形から、死者を弔う意味も生まれました。

 この「死」を用いた文字に「しかばね」「葬」が挙げられます。「しかばね」の文字は、「尸(形代かたしろ)+死」から成り立ち、葬られていない死体・遺体を意味します。また「葬」の文字は、「死+茻(くさむら)」から成り立ち、「ほうむる」や「とむらう」を意味します。死が草と草にサンドイッチ状態にあることから、かつて葬儀のことを野辺送りとも言いました。平成の初めまで地元の葬儀は、自宅から埋葬墓地に向けて葬列で棺桶を運び、墓地内の蓮華座を中心として四門(発心門・修行門・菩提門・涅槃門)を立て、この門を出入して中心の蓮華座の上に棺桶を置き、導師が松明たいまつではなくくわを投げて引導法語を行い、隣人が穴を掘り土葬しました。当然ですがお墓は、時代劇と同じ檜の墓標です。今日では葬儀後、火葬場へ向かう霊柩車や親族の車列を見送ることを野辺送りと言います。

 禅宗には、「あなたが死亡して肉体がバラバラになるとき、どこに向かって去り行くか」という問答があります。この答えに「雪の肌みどりまごう黒髪も馬嵬ばかいが原の土(つゆ)となる」と詠んだ方がいます。絶世の美女と呼ばれる楊貴妃でさえ、安史の乱(安録山の乱)で死を免れることは出来ず、大地の土へ帰る(はかないつゆと同じで消えていく存在)という意味です。そして死者は、大地の土に帰ることであらゆる生命体の根源となり、始祖として有縁無縁の誰からも手を合わせてもらえると言われています。

 葬儀や通夜の涙は、故人を偲びこの世との別れから来るものであろう。私たちはその涙を通して、故人と自分との間柄や関係について、また様々な故人との想い出を振り返る必要があります。そして、今後自分がどのように生きていくべきかを問い、実践行動していくことが必要であります。善き想い出は繰り返し、悪い想い出は二度と繰り返さない。私たちは、人と人との間に生きる人間で、ご縁と共に生かされて生きる温かい涙を持った存在なのだから。

                           

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