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A君の涙

(出典:「瑠璃燈」38号)

 あるお檀家さんの葬儀での出来事です。当地の葬儀形態は、火葬を終えてから通夜・葬式をいたします。
火葬場で読経開始までの待ち時間に、参列者の中に、友人A君を見つけました。彼は現在北陸在住で、叔父様の訃報を受け参列していました。コロナ禍の葬儀では、一時は県外からの参列者を遠慮する傾向がありましたが、ワクチン接種が浸透してきたのでA君も帰省できたとのことでした。私が帰ってこられてよかったねと話すと、A君は「骨拾ってやらねえば(骨を拾ってあげないとね)。」と言いました。
私は、ふと、隠元禅師の親の恩についての説法を思い出していました。

隠元禅師がお弟子さんから法事を依頼された際、次のように話しました。
「山には山のおおもとになるものがあり、川には川の源になるものがあり、物には根本があり、人には人として基づくものがある。このようなもとに返り、源に帰れば、人の歩み行わなければばらない道が完全に達せられたことになる。」
 私たちは常日頃、親の恩を意識することはあまりありません。隠元禅師は、どんな人にも、親がいてくれたからこそ自分という存在があるのだということを自然のありようになぞらえておっしゃっています。
お骨を拾う時に、A君の瞳に光るものを見ました。実はA君、半年前に自身のお父様を亡くされたばかりで、その際には帰省が叶わず喪主を務めることができませんでした。「骨拾ってやらねえば」の一言は、お父様にしてあげられなかった分も、叔父様を弔ってあげたいという心からの言葉に感じました。久しぶりに故郷に帰り、自身のルーツに触れる機会になったのではないでしょうか。

私はA君に「供養になってよかったね」と声をかけて火葬場を後にしました。
                       

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