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良寛さんはなぜ子らと遊んだのか

(出典:「瑠璃燈」38号)

越後の名僧、良寛さんというと、子供らと遊び戯たわむれながら日ひがな一日、優雅に過ごしたイメージを多くの方が持っているでしょう。でも、なぜ良寛さんはそんなふうに無邪気に子らと遊んだのか。皆さんは考えたことがありますか?

良寛さんが岡山円通寺での修行を終え、越後に帰郷したのは寛政8年(1796年)、良寛さんが38歳ごろのことといいます。
当時、越後では河川氾濫や大干ばつなどたびたび起こり、天然痘などのはやり病も流行、貧しい農村はほぼ毎年飢饉の苦況に窮していました。小作人が、明日の飯を得うるのに唯一残された手立ては愛しいわが娘の身売りです。女衒ぜげんらは「向こうでは白いおまんまがたくさん食える……」という甘い言葉で誘惑します。結果、奉公という名目でわずかな金銭と引き替えに身売りされた農家の子女たち。家族と別れ、涙をこらえ女衒に手を引かれいくつもの山を越えて、たどりついた奉公先。その一つが我が町、上州木崎(現 太田市新田木崎町)の旅籠はたごでした。
江戸時代、日光例弊使れいへいし街道の木崎宿は、かつて29軒もの旅籠が軒を連ね、180人以上の飯盛り女がいる、街道最大級の遊興の地でした。
実際、江戸期の古文書にはこの地の飯盛り女たちの多くが越後の出雲崎いずもさきや寺泊てらどまりの出身だったという記録が残っています。そしてその中には、幼少期に良寛さんと鞠つき唄など歌って遊んだ子女も含まれていたそうです。

まだ年端としはのいかない10代前半のうら若き少女たちの夢や希望は早々に崩れ去り、実際の奉公は朝から晩まで毎日つらい日々が続きました。何しろ雇い主には絶対服従です。苛酷な労働条件の下、こき使われ、故郷ふるさと恋し……の想いを募らせながら、病などで早世そうせいする者がほとんどだったそうです。
そういう現実をふまえると、次の有名な句は別の様相ようそうを呈します。

 

霞かすみたつ ながき春日を子供らと 手まりつきつつ この日暮らしつ

 

近い将来、絶望的な厳しい状況が、目の前で手まりつきつつ遊ぶいたいけな彼女らのゆく手に待ち構えていることを、良寛さんはきっとわかっていました。わかっているけれどもどうすることもできませんでした。いかんともしがたい、どうすることもできない苦悶くもんと葛藤の中、良寛さんにできる精一杯は、苛酷な現実を背負うことになる子どもらと、今日は、今だけは日がな一日無邪気に遊ぶこと、愚かといわれても目の前の子らの笑顔を絶やさぬようにすること。それは深い慈悲心から出た止むに止まれぬ行動だったのではないでしょうか。

木崎の寺に住職させて頂いてから25年以上経ちました。今、私たちの幸せな日々の土台には幾多いくたの飯盛り女たちの涙の歴史があることを思いおこし、お経の声にいっそう力を込める私がいます。

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