祖師を偲ぶ~東福寺開山忌~
(出典:書き下ろし)
臨済宗東福寺派の大本山東福寺では、開山である聖一国師を偲び、毎年十月十七日に開山忌が営まれます。開山忌とは、そのお寺を開かれた祖師のご命日に、そのご恩徳を偲び、執り行われる法要のことです。
聖一国師は、鎌倉時代に中国へ渡り、本格的な臨済禅の教えを学ばれました。帰国後は東福寺を開き、臨済禅の教えを広めるとともに、さまざまな文化を日本に伝えたことでも知られています
聖一国師が、弘安三年(一二八〇)に七十九歳でお亡くなりになる際に残された言葉が、遺偈として伝わっています。
「利生方便 七十九年 欲知端的 仏祖不伝」
「利生方便」とは、人々を救い、利益するためのさまざまな手立てのことです。聖一国師は「七十九年」の長きにわたり方便でもって衆生済度に尽力してこられたということです。そして後半は、「端的を知らんと欲せば、仏祖は伝えず」と読み下すこともできます。禅の教えの究極の部分を知りたいと思うならば、仏祖であっても、それをそのまま伝えることは無かった、と解釈できます。
何か分からないことがあったり、知りたいことがあったりするとき、私たちは他者の経験や知識を頼りにします。例えば本を読んだり、経験者の話を聞いたり、スマホで検索したり、はたまたAIに尋ねたりなどして他者が導き出した答えの中から自分が納得できる回答を選び取ろうとします。これは善悪などという尺度で測れるものでもなく、わたしたちが日常的に、当たり前に何度も行っている営みです。しかし、どれほど丁寧に説明してもらっても、自分自身で体験してみなければ、本当の意味で分かったことにならない、という事柄も数多く存在します。
例えば、ある飲食店が「口コミサイトで☆4.8だった」とか、「有名な評論家が美味しいとレビューしていた」という情報を入手したとしても、それは自分の口に合うかどうかは全く別次元の話になります。
これをもっと踏み込んで考えていきます。何らかの悲しみや悩みを抱えた人を不憫に思って、いくら慰めの言葉をかけても、私たちは真の意味でその人の悲しみを代わりに引き受けることはできないでしょう。逆に言えば、自分の人生を、誰かに代わりに生きてもらうこともできません。教えを聞くことはできても、その教えを生きるのは、ほかならぬ自分自身なのです。
「仏祖不伝」という言葉は、教えなど必要ないという意味ではないでしょう。師から弟子へと受け継がれてきた禅の教えを大切にしながらも、最終的な「端的」は自分自身で確かめなければならない。その厳しさと、後進への慈悲のこころが込められているように思います。
開山忌に祖師を偲ぶことは、ただ遠い昔の偉大な人物を懐かしむことではありません。その教えを今の自分に問い直す機会でもあります。聖一国師が歩まれた七十九年と、私たちが今歩んでいる日々というのは、生きる時代も境遇も違いますが、自分の人生を生きるという一点においては、同じものだと思います。誰かが導き出した答えを学ぶことももちろん大切ですが、今日という一日を、しっかり、自分自身の足で歩んでいく。目の前の問題と向き合い、自分がなすべきことをなしていく。その一日一日の積み重ねという経験の中にこそ、祖師から受け継ぐべき大切な教えが息づいているのではないでしょうか。