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縁に随う~悩める木立

(出典:花園11月号「おかげさま」)

 秋が深まってまいりました。紅葉が楽しみな季節です。私が預かるお寺にも、境内には約八十本ものもみじの木があり、参拝客のみならず、私自身も毎年その紅葉を楽しんでおります。
 一方で、同じように杉の木立も、もみじと共生しています。太い太い幹の、大きな枝を持つものも何本かあり、その中でひと際大きな存在感を示すのが、樹齢八百年といわれる大杉です。いわば御神木的なお寺のシンボルツリーであります。これら杉の木立がお寺そのものの年輪、歴史を感じさせてくれています。

 しかし、私はこれらの杉を、正直なところずっと伐採したいと思っていました。何故なら、折角のもみじの新緑や紅葉が、杉によって隠れてしまう場所が多々あるからです。実際写真を撮ろうとしても、必ず杉の枝が邪魔をして、もみじにきちんとスポットを当てることができません。その上、昨今の不順な気候により倒木の心配もあるからです。もしもこれらの杉の、どれか一本でも倒れてきたら、必ずや建物に被害が及びます。建物だけならまだしも、その木立の中を歩いておられる人たちに何かあったら、取り返しのつかないことになってしまいます。私の中ではもはや、この杉の木立が景観を妨げる障害物であり、建物や人の安全を脅おびやかす危険物でしかなくなっていました。

 三年前、このことを役員会で議題に挙げたところ、即、杉を伐採することが満場一致で可決されました。役員さんも安全を担保する責任において、誰一人として反対されることはありませんでした。ですが、いざ伐採が決まるとおかしなことに、私の心の中が揺れ始めました。せっかく長年の懸案が解決できるというのに、「このお寺が誕生した頃から、誰よりも長くこのお寺とともに生き、このお寺を見てきた命を、自分が伐きってしまっていいのだろうか・・・」という思いが強くなってきたのです。だんだん私は、伐りたいのか、伐りたくないのか、自分がわからなくなってきました。

 そんな時に、微妙大師みみょうだいしの「少水の魚に楽しみ有り」という教えに出合いました。水の少ない息苦しい所にいる魚にも、楽しみが有るという教えです。息苦しい中に、一体どんな楽しみがあるのでしょうか。酸素をいっぱいに吸いたくても吸えない、限りある水がどんどん減ってくるかもしれない、そんな不安や恐怖の中で、微妙大師は何を「楽しみ」と仰っているのでしょうか。それは、「縁に随う生き方」ということだと思います。魚はきっと、どれだけ水が少なくなっても、そのままを生きることでしょう。このように、その時、その場の縁に素直に随っていくことの大切さを、微妙大師はお示しになっておられます。

 ふと大杉を見上げると、この木もまた、八百年もの間、風雪や時代の移り変わりという縁を黙って受け入れながら、今日まで生き抜いてきたのだと気づきました。結局私も、縁に素直に随おうと決めました。それは、全面的に伐採するのではなく、安全管理には十分留意し、必要に応じて枝打ちなど倒木のリスクを減らしていくという対処です。この方針については改めて役員会にはかり、役員さんにも理解していただきました。杉の木立との共生も尊いご縁。もしも恐れていることが起きた場合は、その辛い現実でさえも尊いご縁なのですから。どちらにしても、その時のご縁に随って現実と真摯に向き合いたいと思っています。

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