坐禅入門
お釈迦様は、ブタガヤの菩提樹の下で坐禅をされ、7日7晩の禅定の後に、悟りの境地に入られました。
「坐」は、日本の言葉で「すわる」といいます。「すわる」とは、落ちついて動じない、とか、静止する、定着する、などの意味だと辞典にあります。要するに、動かないように安定させることです。
身体を落ちつけて動じない形に安定させ、心を一ヵ所に集中し定着させる。その身と心とを融合統一し、身心を一如に安定させるのが呼吸です。そこで身・息・心の統一調和をはかるのが「坐」だということになります。
次に「禅」ですが、これは「禅那」といい、サンスクリットの dhyana とか、パーリー語の jhana とかの音写で、静慮と漢訳されます。現代の中国語では、channa と発音するようですが、静慮の意味であることに変わりはありません。ただ静慮という訳は、適訳ではないので余り用いられず、「禅」で通っています。そして、禅那とは、心統一の因だといわれますから、坐ることによって身・息・心を統一し、または統一しつつある状態が坐禅だということになります。
その結果、完全に身・息・心が統一され、安定した状態を「定」といいます。定はサンスクリットで Samadhi といい、「三昧」の文字を当てます。
「定」は、ただ消極的に、あるいは単なる受動的な熟睡したのと同じような状態、つまり何もない恍惚境とは違います。そこには生き活きとした、動き出すものがなければなりません。三昧の世界、定の光明から、再びこの世の正しい姿を映し出す働きが出てきます。いいかえれば、定以前の常識的な見方を越えて、「覚」の立場から世界を再認識するものと言ってもよいでしょう。その照らし見る働きを「慧」と申します。
禅では、「定慧円明」といって、定は必ず慧を発し、慧は必ず定に基礎づけられ、打って一丸となった円かに融け合って明らかなものでなければなりません。
禅の目標は、実にこの「我に在る菩薩」を「見」るところにあるといってもよいでしょう。それを「見性[けんしょう]」といっておりますが、見性して観自在の自由自在、思いのままの日常行為をするところにこそ、禅はあります。そのために行住坐臥において、
- 衆生無辺誓願度 [しゅじょうむへんせいがんど]
- 煩悩無尽誓願断 [ぼんのうむじんせいがんだん]
- 法門無量誓願学 [ほうもんむりょうせいがんがく]
- 仏道無上誓願成 [ぶつどうむじょうせいがんじょう]
と、四弘 [しぐ]の誓願 [せいがん]に鞭うっていくのです。
それならば、健康になりたいとか、精神的な悩みを解消したいといって門を叩くものに対して、禅は門を閉ざすのかといえば、決してそうではありません。
「大道無門、千差路あり」です。有限的な概念を持ちませんから、科学とも、どんな宗教とも、もちろん一般常識とも、何ものとも衝突するものではありません。一切から超越しておりますから、東西南北どこからでも、自由にお入り下さい。禅は、仏祖の開いておかれた広大の慈門ですから、健康門から入ろうと、煩悩門から入ろうと勝手です。何ものでもついに発菩提せしめずにおかないでしょう。
そうなると、いったい目標はあるのか、ないのか、あるといえばあるし、ないといえばないようにもなりそうです。いいえ、そうではありません。
どの門からは入っても自由ですが、ただ、自分が禅によって救われたら、その福音を他にも分かとう、地上の人々みんながよくなるようにと、それだけはお考え下さい。これを「下化衆生[げけしゅじょう]」といいます。