法 話

三法印
書き下ろし

栃木県 ・報恩寺住職  伊藤賢山

1907a.jpg 東京大学の名誉教授である勝俣鎮夫氏が2007年に『日本歴史』にて発表した「バックトゥザフューチャー」という論文によりますと、日本語表現において未来のことを「アト」、過去のことを「サキ」と表現する場合、「後回しにする」といった言葉は未来を表わし、「先程は」といった表現は過去を表わす言葉となります。
 逆に過去のことを「アト」、未来のことを「サキ」と表現するならば、「先送り」と言うと「サキ」は未来の事で、「跡をたどる」と言うと「アト」は過去を表わす表現になります。
 ところが戦国時代までは「サキ」は過去、「アト」は未来と決まっていたそうです。現代人は未来の方向を指差す時必ず前の方向を指しますが、戦国時代は背中の方を指差していました。江戸時代になって平和が訪れ、人々は「明日も同じように暮らすことができる」という自信を得て、「未来は私たちの前に広がっているのだ」という思いを持つようになったからではないかと論じられています。

 では現代人はどうでしょう? 日々変わりゆく先行き不透明な時代、将来への希望が持てないと騒ぎ立てる世の中。明日はどうなるか分からないという不安の中でどう生き抜いていくことができるのでしょう。しかし、それは今に始まった事でしょうか? 未来は本来不透明なのではなく「全く見えない」ものであって、元々私たちは未来を見る事などできません。人生は思い通りにならないものなのです。

 お釈迦様は不条理な世の中を幸せに生きるための教えを説かれました。「人生は苦である」という考えから、苦を克服する方法はないかと考え答えを導き出します。
 一つには「諸行無常」です。すべてのものごとは絶えず変化し、一時として留まることはありません。形あるものはいつか壊れ、命あるものはやがて尽きるということです。
 二つには「諸法無我」。あらゆるものは因縁によって生じたものであり、何一つとして独立して存在するものはない。自分一人で生きているということはなく、他の因縁によって生かされているということです。
 三つには「涅槃寂静」。その事をよく理解し物事の道理が解かれば、執着から解放され安らかに過ごすことができる。この三つの教えこそがこの世の真理なのです。

 私たちの苦悩の原因は思い通りにしたいと執着することにあり、苦悩はすべて自分自身が生み出しているということです。
 その上で、明治から昭和にかけての哲学者西田幾多郎先生が14歳の娘さんを亡くした時に書いた気持ちを読んでみましょう。

「亡きわが子が可愛いというのは何の理由もない。ただ訳もなく可愛いのである。ここまで育てて惜しかろうという人もあるが、親にとって損得ではない。悲しんでいる人は大勢いるのだから忘れなさいよと言ってくれる人がいるが、これは親にとって堪え難いことである。せめて自分だけは一生思い出していてやりたいというのが親の心である。この悲しみは苦痛といえば苦痛だが、しかし親はこの苦痛のなくなるのを望まない。人生の無常、儚さという道理は充分承知しているのだが、ただ訳もなく悲しくて、それでいてこの悲しみを大切にしていきたい。」

と、このように綴っております。これが真理に目覚めてしかも悲しみを大切にしていく、本当の愛というものでしょう。
 西田先生は「諸行無常」と「諸法無我」の儚さを十分に腹底に落とした上で、わが子を亡くした悲しみを噛み締めているように感じます。だからこそ「涅槃寂静」の心境に到れたのでしょう。

 私たちは思いを膨らませれば記憶は過去に遡ることもできますし、未来を想像し夢を描くことも可能です。しかし実際にはこの瞬間を生きる事しかできません。だからこそ与えられたこの瞬間をしっかりと生きる。それが先行きの見えないと言われている現代を力強く生きていく鍵なのです。
 人生は思い通りにはなりません。先行きの見えないこの時代、西田先生のように縁を大切にし、無常を受け止め、その上であたたかな寂静に到りたいものです。仏教ではこれを「三法印」と申します。