法 話

釋宗演禅師のこころシリーズ〔15〕
「花のありかは~心の目を覚ます」
書き下ろし

福岡県 ・乳峰寺住職  平兮正道

年毎に 咲くや吉野の 山桜 木を割りて見よ 花のありかは

 明治時代の禅僧、釋宗演禅師はこの和歌を引用して、次のように説かれています。
 「冬枯の桜の木の中に、チアーンと美しい花が包まれてあるかといふに、何(な)んの跡も形もありませぬ。世人は形の見えないものは、真実でないと思ふているが、恁(そ)ういふことは、仏教では『真空』といひ、『妙有(みょうゆう)』といひます。真実は、空(くう)なると同時に又、有であります」
 
 「花」は目に見えますが、「花の命」は目に見えないものです。しかし、それが確かにあるということは、誰もが認めることでしょう。釋宗演禅師は、その「花の命」に例えて、目に見えないものを見ようとする大切さを伝えようとしているのです。
 それでは、どのようにすれば見えないものを見ることができるのでしょうか? ......それは「心の目」を覚ますことです。思いやりの心を忘れずに、真剣に身の周りのものに心を傾けると、自ずと見えないものが見えてきます。失われてしまった命や、本来、命を持たないモノの命すら見ることができるのです。

1904a.jpg 新聞に「おばあちゃんの目」という投稿記事がありました。

 私が幼かった頃「この鉛筆、もうちびたけ(すり減ったから)、使えん」って捨てようとしたら「そんなに粗末にしたらいけんよ。目がつぶれるよ。ばあちゃんに持っておいで」と言ったね。
 私が「どうすると? なんで目がつぶれると?」って聞くと、「何にでも命があると。この鉛筆にもあると。ちびたけっち捨てたら悲しむよ。ちびて使いにくいなら紙を巻いて長くしたら使いやすくなるやろ」と、長くした鉛筆を渡しながらこう話してくれたね。
 「この鉛筆も元は木やろ。切られんかったらどんだけ大きい木になったやろうね。切られとうなかったろうね。けど、切られて鉛筆になってくれたおかげで字も絵もかけるね。大木になれんかった木の命が鉛筆の命になったんやけ、大切に使わせてもらわなね。目がつぶれるいうんは、何でも粗末にしよったら、命が見えんくなるっちこと。命が見えんっちことは本当のことが見えんくなるっちことよ。何でも粗末にしよったら、自分も粗末になるっちことよ」
って。

 この方は、はじめは「命」が見えていませんでした。しかし、おばあちゃんの言葉で、失われた「木の命」に気づくことができました。そして、その瞬間、鉛筆の中にも確かに「命」が宿ったのです。
 おばあちゃんの「粗末にしたら、命が見えなくなる。命が見えなくなると、本当のことが見えなくなる」という言葉は、私たち現代人の心に、ことさらに響くのではないでしょうか。

 釋宗演禅師は、このことを、ただ「無い」とか「有る」とかではなく、「真空」であり「妙有」である、と説かれました。「真」とは、本当のことであるということ、「妙」とは、言葉では言い表わせないほど素晴らしいものであるということです。そこには、私たちが生きるべき人生の道しるべが示されています。

 「心の目」を覚ませば、きっと今まで見えなかった「花の命」が見えてくるはずです。みなさんもどうか、慈しみの目を持って周りのものを見渡して、豊かな心で毎日をお過ごしになってください。