法 話

いただきます
書き下ろし

鹿児島県 ・光明寺住職  松本昭憲

1905a.jpg 私たちはご飯をいただく前に「いただきます」と言いますが、これはその素材や材料の命をいただく、その食事を作ってくれた方々への感謝の思いを伝えるといった意味がございます。
 私は修行中に、延べ1年半の間、典座(てんぞ)という食事係を仰せつかりました。典座は修行僧の食を支える、いわゆる修行における縁の下の力持ち的存在です。毎日20人以上の食事の用意に明け暮れておりました。それこそ大変な毎日だったのを思い出します。しかしそんな経験があるおかげで、料理を作る人の気持ちがよくわかるようになりました。
 今でも出された食事は温かいものは温かいうちに、冷たいものは冷たいうちに、作ってくださった方の思いを無駄にしないようにできるだけおいしく頂戴することを心掛けています。それはたった今、目の前の食事に集中するということです。

 禅僧の修行中は私語が許されません。食事の際もただ黙々と食事をいただくのです。これはこの現代社会における食事中の会話を否定するものではありませんが、いつも会話を楽しみながら食事をされている方々も、たまには黙って食事に集中してみてはいかがでしょうか。今まで感じなかった美味しさを感じることができるかもしれません。「いただきます」という言葉の感謝の意味を再認識できるきっかけにもなるでしょうし、またひとつ人生の喜びが増えるかもしれないのです。

 修行はなにも修行道場にいなければできないものではありません。家にいながらにしてできることだって沢山あります。
 目の前の事柄に集中するということ、それもまた立派な修行といえるでしょう。掃除に一所懸命。歩くことに一所懸命。運転することに一所懸命。食事を作ることに一所懸命、食べることに一所懸命。いろんな一所懸命にチャレンジしてみてください。

 「心頭滅却すれば火もまた涼し」という慣用句があります。そのことに集中していれば暑さ寒さも忘れてあっという間に時間が過ぎ去ってしまうことがある。精神の鍛練ができているから暑さ寒さを感じないのではなく、一所懸命集中しているからこそ、心が要らぬことに囚われなくなっているという意味です。目の前にある物事に集中し、邪魔なことに気を囚われないことで、一日一日は変わります。まさに日々の心掛けひとつで私たちの生活はどんどん変わるのです。毎日「いただきます」という度に、その言葉の意味をかみしめることができますように私たちと共に心掛けていきましょう。