法 話

「求不得苦」~有難いと思う心~
書き下ろし

神奈川県 ・報国寺副住職  菅原義功

 お釈迦様は、人間には大きく分けて8つの苦しみがあるとお説きになりました。
 生・老・病・死(生きていくこと・老いること・病になること・死ぬこと)、これを四苦といいます。そして愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦(愛する人と別れること・恨み憎んでいる者に会うこと・求めるものが得られないこと・人間の肉体と精神が思いどおりにならないこと)、この4つを加えて八苦といいます。これを合わせて、四苦八苦となりますが、このなかでも、求めるものが得られない苦しみ「求不得苦(ぐふとっく)」について取りあげてみたいと思います。

rengo1707b.jpg 何かを求める心、人間は留まることを知りません。仮にその何かを得られたとしても、次々とまた何かを求めてしまいます。それは、物欲ばかりとは限りません。
 私たち臨済宗のお坊さんには、約3年以上の修行期間があります。修行期間は睡眠時間が短く、私が新人の時は1日に2時間程度でした。普段は布団に入るのが待ち遠しくて、どんなに暑かろうが寒かろうが、布団に入った途端に寝てしまいました。
 しかし、年に1度、いつまでも寝てよい日があります。「丸一日だって寝ていられる!」と思っていましたが、なんと朝5時には目が覚めてしまうのです。二度寝しようと思うのですが、いつもは気にならない枕の高さがどうも気になります。「もうちょっと背の高い枕はないか、足元が寒い、もっと毛布がほしい、お腹がすいてきた、食べるものはないか」と睡眠欲が満たされた瞬間に、次々と他の欲が湧いてくるではありませんか。ひとたび気になりだすとそればかり考えてしまって悶々としてしまいました。
 皆さんの日常で考えてみますと、ずっと欲しかった服を買ってウキウキと家に帰ってくる。家でいそいそと試着をする。「この服に似合う靴はあったかな? これに合うバッグを持っていないわ」と、欲が際限なく出てきてしまうことはありませんか?
 人間は欲しいものが手に入った途端、その欲しかったものが手元にあることが「当たり前」になってしまいます。
 これは、服だけに限りません。いま住んでいる家があるのが当たり前、今日ご飯が食べられることが当たり前、そして今、自分が生きていることが当たり前。そうなってしまってはいけないと思います。
 当たり前には対語があります。それは、「いま有ることが難しい」ということ、「有難い」。日々、身近にあるものに対して、当たり前にあるのではなく「有難い」と思える心、これこそが重要だと考えます。それは物だけではなく、人間に対しても同じことがいえるでしょう。
 私たちも、自分では気が付かないところで、様々な人に支えられて生きています。当たり前のように近くにいる人に支えられていることに気付く。それにより、自然と感謝の気持ちが湧いてくるのではないでしょうか。外に何かを求めるのではなく、当たり前のことにありがとう、と思える気持ち、その気持ちを積極的に表に出していきましょう!
 これこそが、現代に少し欠けているのではないかと思います。