法 話

敬天愛犬
書き下ろし

島根県 ・長源寺住職  岸本惠親

 明治初め、とある鰻屋に犬を連れた男が立ち寄り、鰻丼を注文します。店の主人が一杯持ってくると、男は店の庭に繋いだ犬に鰻をあげました。そして又一杯、更にもう一杯と鰻丼を頼み、犬に食べさせました。それほど犬を愛したこの人物こそ西郷隆盛です。
 彼ほど「犬(戌)」としっくりくる人物はいません。東京上野公園の愛犬を連れる銅像は、私たちに払拭できない西郷隆盛のイメージを与えております。しかも、この銅像が完成した除幕式が、明治31年戌年です。更に彼が生涯を閉じることになった西南戦争。その発端となった、鹿児島における私学校設立も明治7年の戌年であります。また言うまでもなく本年戌年の大河ドラマは「西郷どん」です。
 西郷隆盛の好んだ言葉に「敬天愛人」があります。万物生成の源たる天。大自然とも宇宙とも置き換える事ができます。その存在を敬う。敬うとは真心を行動で示す事です。行動とは言葉遣い・立ち居振る舞いです。真心を尽くし人をいつくしむ。敬天愛人の説く処は実に深淵です。
 西郷が好んだ敬天愛人。墨跡としても大変珍重されていますが、実際本人が揮毫したものは十幅だけだそうで、それらは明治7年戌年後半から9ヶ月という僅かな期間に書かれたとされます。
 やっぱりここでも、犬(戌)がついてまいります。
 そんな西郷にあやかって、犬にまつわる禅の教え「狗子仏性(くすぶっしょう)」(『趙州録』)をご紹介いたします。中国は唐時代の禅僧、趙州禅師の禅問答です。

  修行僧が禅師に問いかけます。
  「狗子に還って仏性有りや無しや(犬にも仏様の性質がありますか?)」。
  禅師は「無い」と応じます。その言葉に、
  「上は諸々の仏様から下は蟻にまで全てに仏性が有ります。なぜ犬に無いのです
  か」。
  と修行僧が尋ねると、禅師はこう答えました。
  「業識性(ごっしきしょう)があるからだ」。

 東福寺派管長であられた福島慶道老大師は、
 「業識性は迷いだ。だからこれは、『犬に迷いがあるからや』。迷いのあるものは、それは仏性を具せる当体とはいえない」(『趙州録提唱』)。
と示され、この問答の傍に犬がいたと推察されておられます。もしかしたらワンワン吠えていたのかも知れません。

 先述した敬天愛人に含まれる「愛」の字ですが、漢字の成り立ちからして、ほのかにひっそりと歩く意、とされます。相対する人と歩調をあわせるためには、自身の心を穏やかに、そして迷うことなく、飾ることなく自然体で向き合わねばなりません。

rengo1801a.jpg 犬にも感情があります。遊んでくれ、餌をくれ、こっちに来るな、と吠える犬には仏性は無い。これは人間も同じではないでしょうか。逆に犬との散歩の途中に転んだ時、犬が立ち止まって傷を舐めようとします。心配してくれているからです。犬も真心を行動で示し、寄り添って歩いてくれることがあるのです。

 冒頭の西郷の逸話には続きがあります。合わせて3枚の鰻を犬に食べさせた西郷ですが、面白くないのは店の主人です。丹精込めた鰻を犬に食べさせる訳ですから。西郷が更に注文しようとすると、鰻はもう無いと断ります。すると西郷は、そっと包み紙を置いて犬を連れて店を出ます。店の主人が包み紙を開けると金5円(現在の凡そ10万円)が入っていました。驚いた店の主人は後から、この人物が西郷だと気づき納得したといいます。平生、真心を尽くす心掛けを修養したとされる西郷ならではの逸話であります。
 
 相対する人に歩調を合わせること。西郷のような偉人だけが得られるのではなく、散歩中の犬にだって迷いなく表わせる、誰しもが持つ真心の働きです。
 本来具せる私たちの真心で、年頭の一歩を踏み出していただきたいと存じます。