「一切は唯だ心の造るものなり」と読まずに、「一切唯心造」と読みます。
盆の季節になると各寺院では、施餓鬼会――釈尊在世当時、弟子の阿難尊者が、「定命尽き餓鬼道に堕ちるのを免れたくば、餓鬼に十分な食事の施しをせよ」と陀羅尼経を唱え供養する修法を釈尊より伝授されたことより始まったといわれる、餓鬼、すなわちむさぼりの心を持つ者への食の施しをする行事――が修行されます。その折り、大勢の僧が独特の節回しで唱和する経文に、『施餓鬼―甘露門』というのがあります。その初めに、
若人欲了知 三世一切仏 応観法界性 一切唯心造・・・
若し人、三世一切の仏を了知せんと欲しなば、応に法界の性を観ずべし、一切唯心造なり、と。
―もし仏のこころを知ろうとするならば、宇宙一切の諸法の本性を唯だ心造なりと観ずべし。
「一切」とは、すべての現象、存在を意味します。「唯」とは、ただそれだけのこと、私たちの周囲のすべての存在現象は「心」の働きであり、「心」が造り出したものにすぎないというわけです。すなわち、あらゆる存在は心より現出したものにほかならず、心のほかに何物も存在しないのです。
白隠禅師はあるとき、一人の若侍から地獄の有無を問われます。白隠は若侍を一瞥して言います。「貴公は見たところ立派な武士だが、いい年をして、まだ、地獄が有るのか無いのかとはあきれたことだ!」とくそみそに罵倒し、あげくの果てには、不忠の臣、不孝の子よ!腰抜け侍!と口を極めて面罵します。初めは有名な高僧の言うことだと歯をくいしばって耐えていた若侍も、ついに我慢しきれなくなって、やにわに刀を抜いて白隠に斬り掛かります。白隠和尚は巧みに逃げまわりますが、ついに追い詰められて一刀のもとに斬り伏せられようとする刹那、白隠は「そこが地獄だ!」と鋭い叱声を飛ばします。」
その一語を聞いた若侍は正気を取り戻し、なるほどと合点します。さきほどの鬼面もどこへやら、思わずそこに平伏して、笑みさえ浮かべて言います。「わかりました。地獄の所在がしかとわかりました」と。すると白隠もにっこり笑って、「そこがまた極楽よ!」と事もなげに言い切ります。
地獄も極楽も所詮、心の中にあったわけです。心が造り出したものにほかならないのです。
有無・得失・善悪・美醜・愛憎など、一切の相対的差別の見方も、これすべて心の造り出したものです。相対的世界があるからそこに争いがあり、悩みがあり、迷いがあるわけです。
法界すべて一切唯心造と達観すれば、自然にそれらの対立が泯然と消えて、真如そのままの心になることができるのです。まさに仏の心を知ったというべきです。
至道は無難なり、唯だ揀択を嫌う。但だ憎愛莫くんば、洞然として明白なり
と『信心銘』にある通りです。一切唯心造、この語を知的に理解することはやさしい、しかし、一切唯心造を達観して、洞然として明白になることは難しいものです。