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無事是貴人 (臨済録) ぶじこれきにん

『白馬蘆花に入る -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊)より

12月を表す季節の画像

 『臨済録』にある有名な語です。歳末が近づくと、どこの茶席にもこの語が掛かります。この一年間、たいした災難にも遭遇することなく、無事安泰に暮らせたという喜びと感謝の念を表わすと同時に、師走(しわす)といわれるほど忙しい年の瀬であっても、決して足もとを乱すことなく、無事に正月を迎えられるようにと祈って、この語を重用します。
 しかし、禅語としての「無事是れ貴人」の意は少々違います。無事とは、平穏無事の無事でもなく、また、何もせずにブラブラすることでもありません。無事とは、仏や悟り、道の完成を他に求めない心をいいます。貴人とは「貴族」の貴ではなく、貴ぶべき人、すなわち仏であり、悟りであり、安心であり、道の完成を意味します。
 私たちの心の奥底には、生まれながらにして仏と寸分(たが)わぬ純粋な人間性、仏になる資質ともいうべき仏性(ぶっしょう)というものがあります。それを発見し、自分のものとすることが禅の修行であり、仏になることであり、悟りを得るということです。私たちは、えてしてそれを外に求めてウロウロするのが現実です。
 「求心(ぐしん)()(ところ)(すなわ)無事(ぶじ)」と、臨済禅師は喝破(かっぱ)します。求める心があるうちは無事ではありません。「放てば手に満てり」という言葉がありますが、「求心歇む処」が無事であるのです。その無事が、そのまま貴人です。
 「()造作(ぞうさ)すること()かれ、()だ是れ平常(びょうじょう)なれ」と、臨済禅師は無事を詳解します。「面倒くさい」「むずかしい」の反対語に「造作(ぞうさ)なく」という言葉があります。当然のことを造作なく当然にやることが平常であり、無事というわけです。いかなる境界(きょうがい)に置かれようとも、見るがまま、聞くがまま、あるがままに、すべてを造作なく処置して行くことができる人が、「無事是れ貴人」というべきです。
 今日の池ノ坊流の華道を創立した池坊専応(せんのう)は、あるとき、千利休の茶の師である武野(たけの)紹鴎(じょうおう)に依頼されて花を活けます。あまりの見事さに感心した紹鴎は(ただ)します。
「あなたは、どんな心境でこの花をお活けになりましたか」
 専応は答えます。
「いろいろの千草にまじる沢辺かな――という句を頭に描いて花を活けました」
 沢辺に咲き乱れるさまざまの草花には、美しく見せたいとか、目立ちたいとかいうはからいは微塵もありません。ただ、無心に一生懸命に咲いているだけです。
 専応も花()けに向かって上手に活けようと意識するわけでもなく、紹鴎を感心させようと小細工を(ろう)するわけでもありません。造作なく、すなおに、「いろいろの千草にまじる沢辺かな」の句を想い描いて、花を一本一本挿していっただけです。
 専応もまた、無事底の一人であるのです。