『臨済録』にある有名な語です。歳末が近づくと、どこの茶席にもこの語が掛かります。この一年間、たいした災難にも遭遇することなく、無事安泰に暮らせたという喜びと感謝の念を表わすと同時に、師走といわれるほど忙しい年の瀬であっても、決して足もとを乱すことなく、無事に正月を迎えられるようにと祈って、この語を重用します。
しかし、禅語としての「無事是れ貴人」の意は少々違います。無事とは、平穏無事の無事でもなく、また、何もせずにブラブラすることでもありません。無事とは、仏や悟り、道の完成を他に求めない心をいいます。貴人とは「貴族」の貴ではなく、貴ぶべき人、すなわち仏であり、悟りであり、安心であり、道の完成を意味します。
私たちの心の奥底には、生まれながらにして仏と寸分違わぬ純粋な人間性、仏になる資質ともいうべき仏性というものがあります。それを発見し、自分のものとすることが禅の修行であり、仏になることであり、悟りを得るということです。私たちは、えてしてそれを外に求めてウロウロするのが現実です。
「求心歇む処、即ち無事」と、臨済禅師は喝破します。求める心があるうちは無事ではありません。「放てば手に満てり」という言葉がありますが、「求心歇む処」が無事であるのです。その無事が、そのまま貴人です。
「但だ造作すること莫かれ、祇だ是れ平常なれ」と、臨済禅師は無事を詳解します。「面倒くさい」「むずかしい」の反対語に「造作なく」という言葉があります。当然のことを造作なく当然にやることが平常であり、無事というわけです。いかなる境界に置かれようとも、見るがまま、聞くがまま、あるがままに、すべてを造作なく処置して行くことができる人が、「無事是れ貴人」というべきです。
今日の池ノ坊流の華道を創立した池坊専応は、あるとき、千利休の茶の師である武野紹鴎に依頼されて花を活けます。あまりの見事さに感心した紹鴎は質します。
「あなたは、どんな心境でこの花をお活けになりましたか」
専応は答えます。
「いろいろの千草にまじる沢辺かな――という句を頭に描いて花を活けました」
沢辺に咲き乱れるさまざまの草花には、美しく見せたいとか、目立ちたいとかいうはからいは微塵もありません。ただ、無心に一生懸命に咲いているだけです。
専応も花活けに向かって上手に活けようと意識するわけでもなく、紹鴎を感心させようと小細工を弄するわけでもありません。造作なく、すなおに、「いろいろの千草にまじる沢辺かな」の句を想い描いて、花を一本一本挿していっただけです。
専応もまた、無事底の一人であるのです。
禅語
無事是貴人 (臨済録) ぶじこれきにん
『白馬蘆花に入る -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊)より