花無心招蝶 蝶無心尋花

禅 語

更新日 2006/04/01
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花無心招蝶 蝶無心尋花
(道徳経)
はなはむしんにしてちょうをまねき
ちょうはむしんにしてはなをたずぬ

『枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・2000.11.禅文化研究所刊)より

 爛漫と咲き乱れる万朶の桜でなくてもよい、草かげに人知れず咲く、一輪の草花で十分です。そこに色彩豊かな立派な蝶でなくとも、薄汚れた、ちっぽけな蝶でこれまた十分です。一輪の花に二、三匹の蝶が戯れる、どこでも見られる風景ですが、私たちは何気なく見落とします。良寛さんは、ここをとらえて無心の出合いの真実を詠いあげます。
 花は蝶を招きたいとも思わないし、また、蝶も別に花を訪ねたいとも思わない。しかし自然に出合う、即ちめぐりあうわけです。
 私たちの人生もめぐりあいの連続です。親にめぐりあい、兄弟姉妹にめぐりあい、友人にめぐりあい、夫にめぐりあい、妻にめぐりあい、子供にめぐりあい、また、苦しい事、楽しい事、悲しい事、いろいろな事にめぐりあいます。
 これはみな偶然でしょうか。偶然と言ってしまっては物足りません。宿命でしょうか。宿命と言ってしまっては救われません。では、一体何でしょうか。すべて因縁の法によって成って行くのです。最初、原因があり、そこに縁が働いて結果が出てきます。結果がそのまま、結果で終わるのではなくて、また原因となって、ある縁が加わって結果が出ます。因縁と果が循環するのです。これを仏教では因縁の法則といいます。
 例えば一箇の豆の種子があります。これが因です。畑を耕し、種子をまき、水をやり、肥料を施す、これが縁です。芽が出て実がつく、これが果です。縁の働き具合で果も大きく違ってきます。悪い因でも良縁が加わればいい果が得られ、良い因でも悪縁が加われば悪果となるのです。これが仏教の因果律です。決して宿命論的なものではありません。縁のままに花は咲き、蝶もまた、縁のままに舞う、因縁の出合いです。
 私たちのめぐりあいも、因縁の法に従っての結果です。その底に秘められているめぐりあいの糸のつながりは、私たちには見えないだけです。法則に従って生きる、否、生かされている事を謙虚に自覚して、めぐりあいを生かす生き方をしたいものです。
  子を抱いていると
  ゆく末のことが案じられる
  よい人にめぐりあってくれと
  おのずから涙がにじんでくる
                       (仏教詩人 坂村真民「めぐりあい」より)