「喝」ほど禅旨を端的に示す言葉はありません。禅宗では本来叱咤の声で、相手が言句を差しはさむ余地を与えないために用いられた言葉です。この喝に、文字通り活を吹き込んだのは臨済宗の開祖、臨済義玄禅師(?~867)です。「徳山」といえば棒といわれるように、「臨済」といえば喝といわれる所以です。しかし、最初に喝を放ったのは、馬祖道一禅師だといわれています。その弟子である百丈禅師(749~814)は後に述懐しています。
「我れ当時、馬祖に一喝せられて、直に三日耳聾するを得たる――私は昔、馬祖和尚に一喝せられて、三日間何も聞こえなかった、それほどすさまじい一喝であった」
この馬祖の一喝が、百丈、黄檗を経て臨済禅師に至って、喝を喝たらしめたのです。
『臨済録』を見ると、「師便ち喝(かつ)す」の場面が随処に見られます。しかし、その一つ一つがいろいろな意味を秘めているのです。臨済禅師はそれを四つの働きに分けています。いわゆる「臨済四喝」といわれるものです。
有る時の一喝は金剛王宝剣の如く、有る時の一喝は踞地金毛の獅子の如く、有る時の一喝は探竿影草の如く、有る時の一喝は一喝の用を作(な)さず。
「有る時の一喝は金剛王宝剣の如く」。「金剛王宝剣」とは名刀の中の名刀のこと。名刀が何でもスパッと一刀両断にするように、この一喝で私たちの煩悩を初め、是非善悪等一切の分別心を截断して、本来の自己に立ち返らせる働き、その一喝を「金剛王宝剣の如し」というわけです。
「有る時の一喝は踞地金毛の獅子の如く」。「踞地」とは、大地にうずくまること、「獅子」とは、ライオンのこと。百獣の王、ライオンが今にも獲物に向かって飛びかかろうとする瞬間、目をらんらんと輝かせて、四方八方に細心の注意を払って、内に百雷の威力を秘めて大地に踞す姿に喩えて、「踞地金毛の獅子」というわけです。この獅子がひとたび哮吼すれば、百獣は脳が破裂せんばかりに畏れおののき、姿を隠すように、この一喝は如何なる英雄でも肝をつぶすほどすさまじいと言われています。
「有る時の一喝は探竿影草の如く」。「探竿影草」とは、猟師が草の下に魚がいるかいないのか棒で探ることです。この一喝で、出てきた修行者が聖か凡か、真か偽かを探り照らして、その力量を見抜く一喝の故に、「探竿影草の如し」というわけです。
「有る時の一喝は一喝の用を作さず」。前述の三喝のような働きをしない喝とは、どういう喝でしょうか。
修行者が修行に修行を重ねて、十年、二十年、練りに練り、鍛えに鍛えて、もはや修するに修するの道なく、学ぶに学ぶの法なきところに至って、一切のアカの抜け切った任運自在、心の欲する所に従って、しかも矩を
踰えざる大自在、遊戯三昧の境界から発する一喝が、この一喝です。故にこの一喝は、必ずしも「喝」の形相を取りません。日常茶飯事の一挙手一投足がすべてこれ一喝でなければなりません。「一喝の用を作さざる一喝」は他の三喝の根源であり、他の三喝を包括するものです。故に、厳密にいえば、すべての喝はこの「一喝の用を作さざる一喝」でなければなりません。言ってみれば、臨済禅師の説く禅のギリギリのところというべきです。
京都妙心寺の管長であられた蘆匡道老師には、この四喝にまつわる因縁語があります。
匡道和尚は若くして師匠の死に遇って、大阪高津の少林寺に住します。住して間もなく、檀家の医者、千葉寿輔の娘が亡くなります。請われて葬儀の導師を勤めます。法式に従って誦経し、引導を渡し、一喝を吐きます。さて次の日、檀家の主人はお布施を持って礼に参ります。そしておもむろに問います。「臨済宗には、“臨済四喝”というものがあるそうですが、和尚様の吐かれた“喝”は一体、何の一喝にあたるのでしょうか」と。
匡道和尚、返答につまります。もちろん和尚とて理屈を言うくらいは易かったでしょうが、生真面目な和尚はグウッと考え込んでしまいます。主人は意味もわかっていない坊さんに引導を渡してもらった娘をふびんに思い、口を極めて和尚を痛罵します。匡道和尚、自分の修行不足を痛切に感じ、意を決して、京都の八幡円福寺の海山老師について、もう一度修行のやりなおしを決心します。そして毎日毎日、大阪の高津から円福寺まで十余里の道を、雨の日も、風の日も、朝二時に起きて歩いて通参します。その間十四年間、一日も休むことなく、ついに大事を悟って、その檀家の主人に一喝の所在を教えます。檀家の主人は涙を流して喜び、今までにも増してていねいに和尚を遇したといわれています。
『臨済録』では四喝に次いで、「汝、作麼生か会す。僧擬議す。師便ち喝す」と続きます。
「今挙げた四喝、汝はどう、わかったのか?」という臨済の問いに、この僧、わからず擬議します。臨済則ち喝す!です。
私たちもとっくに、臨済禅師から一喝もらっているに違いありません。喝!カツ!と。
禅語
喝 (臨済録) かつ
『白馬蘆花に入る -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊)より