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日々新又日新 ひびひびにあらたにして またひびにあらたなり

『愛語 よい言葉をかけて暮らそう ―山田無文老師説話集―』
(2005.11禅文化研究所編・刊)より


02月を表す季節の画像

殷の湯王という人は顔を洗う洗面器に、「苟に日に新たに、日々に新たにして、又た日に新たなり」(『大学』)と、はりつけておられたということでありますが、毎朝顔を洗うがごとく、心も毎日新しくならにゃいかん。
 「苟に日に新たに、日々に新たにして、又た日に新たなり」。毎日新しい心で、ということは何にも一物も持たない心で新しい世界に触れていくならば、この世界は新しい。昨日の太陽が出ておるようだけれども、厳密に言うたら、あれだけ熱量を発散したら昨日の太陽と今日の太陽とは熱量が違うはずである。庭の草木を見たって、毎日朝顔のつるが伸びておる。昨日咲いた花は今日は咲かん。水の流れは毎日違っておる。自然の世界は毎日新しい。人間の心だけが古いところにこだわっておる。それが病気であります。
 自然だけじゃない、われわれの体でも新陳代謝して、昨日の細胞と今日の細胞とは違うのです。すべてが新しくなっていくのだから、心も新しくして、昨日のことは忘れて、昨日喧嘩したことは忘れて、昨日人を恨んだことは忘れて、憎いことも嬉しかったこともすべて忘れて、新しい心で今日を迎えていくということが、道というものであります。それが本当の人間の生き方であり、正しい生き方であります。
 「一念修行すれば、自身、仏に等し」、毎日新しい心で生きていくならば、そのまま仏である。どなたでも皆な新しいことが本当はお好きなんです。新しいという新は真実の真だ。八百屋へ行かれても、「この大根は新しいですか、この茄子は新しいですか」と言って、新しいのを買います。魚屋へ行っても、「この鯛は新しいですか、この鰯は新しいですか」と言って新しいのを買います。呉服屋へ行っても、「この柄は新しいですか、今年の新しい柄ですか」と言って念を押す。洋服屋へ行っても、「新しいスタイルですか」と言う。何でも新しいことが好きなくせに、心の中では三年前にあんなことを言いよったと、忘れられん。死んでも忘れんという。おかしいことだと思います、心が何でそんな古いことが好きなのか。
 自然が新しくなっていくごとく、心も毎日毎日新しい心になって、古いことはさっさと忘れていく。忘れるといって忘れることはできんけれども、それは写真を見るがごとくに思い出したらいい。写真は古いことの思い出でありますが、ああいうこともあったなあという思い出だ。新婚の時はこうだったなあ、あの時はこうだったなあと思い出して写真をご覧になる。だから喧嘩した時も、あああの時はあんな喧嘩したが俺も若かったなあ、馬鹿なことだったなあと言うんならよろしい。その時、腹を立てた時の感情をここでまた再燃して、「あいつは憎いやつじゃ」、これでは困る。
 記憶を捨てるわけにはいかんが、それは過去のこととして眺める心のゆとりが出てこんといかん。「一念修行すれば、自身、仏に等し」、そのように眺めていく水のような心の修行をしていくならば、そのまま仏だ。何も無理に坐禅をなさらなくてもよろしい。古いものをさっさと捨てていける心の切り替えのできる稽古をする。今腹を立てたけれどもすぐ横を向いて笑っておれる。こういう切り替えができるならば、そのまま仏である。